第二十九話 尊ぶべき選択の果てに――

◆◆◆ ???――


 レミリアの言葉に唇を戦慄かせるオルバが少女に飛び掛かった瞬間、薄暗い廊下に悲鳴が鳴った。


 赤い飛沫が舞い、腐り切った血の匂いが充満する。

 それは無垢な白い少女の甲高い声ではなく、男の。それも醜い獣の叫びであった。


「あ、ああ。ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」


 己の身に起きたことが理解できずたたらを踏むようにして腰を打ち付ける。

 醜い我欲の獣はその脂ぎった視線の先になにを見たのか。


 赤く裂けた頬を両手で覆い、ぶるぶると震えて後ろに下がり始めた。


 ――カツ、カツッと

 暗闇の奥の奥。誰もいるはずのない世界から軍靴の音が規則的に鳴り響く。

 不安げにあたりを見渡すレミリアも、黒い上着を胸に抱えあたりを見渡している。


 しかし、その無垢な瞳はある一点を見つめ、我欲にまみれた獣の瞳は身震いするように無様に後退った。


「あ、ああ。お、お前は――」


 震える指先。

 その先に闇より闇らしい姿を纏った男が立っていた。

 それは黒い木刀を携えた死の代理人であり理の殺人者。

 ありとあらゆる不条理を許さず、その身一つで神に抗った≪人間≫。

 血に濡れた≪欲望≫の残価は強靭な魂を浅ましい闇で犯すことも能わず、その清廉なまでに気高い魂に飲まれて消えるだけ。


 鳴動する重圧がピリピリと空気を乾かす。

 それは人としての魂の格を超越した者のみが扱うことを許された≪神気≫にも似た『なにか』。

 

 そしてここに一人の男が表舞台に姿を現す。

 そう。憐れで尊い一人の少女の≪欲望≫に応えるために


 全ての条件はそろった。


 約定の時。

 収穫の時。


 傷つき倒れたはずの蕾は大輪の花を咲かせ、実に鮮やかに美しい色で魂を彩る。

 暗闇と痛みに怯え、くすんでいた魂はそこにはない。


 それが例え『作られた魂』であったとしても、彼はその想いを平等にそして真摯に汲み取る。


 神だからではなく、人として生きるがために――


「ようやく人間らしくなったじゃねぇかレミリア。……あの夜の言葉、しっかり覚えてたみたいだな」

「はい。――はいッ!!」

 

 力強く頷く少女の魂に彼は優しげな瞳で少女を見る。

 瞳いっぱいに零れた大粒の涙。

 それは痛みではなく、心の底からあふれる未知の痛みから生じた信号だ。


 獣は涙を流さない。だからこそこの暖かい涙の意味は――


「……あの夜。お前を買ってであえて本当によかった」

「えっ――!?」


 唇を開けば、言霊は人々を畏怖させる呪いに変わり。その場にいる全ての魂を釘付けにする。

 そしてその唇から洩れる言葉の端々には強い歓喜の輝きがあった。

 僅かに口元を綻ばせ、一歩前に進み出る。


 荒神裕也。

 人に作られ、その生きざまで神を魅了した≪人ならざる人≫。

 運命の不条理に抗ったその気高さは生まれ変わったとしても色あせることはない。

 たった一人の親友を救うためにその人生を捧げたもう一人の主人公。

 そして――


「さぁ全ての演者は出そろった。物語の価値はこれで決まる。極上の悲劇のカーテンコール。……邪魔な小物には退場願おうか」


 闇より闇らしく。人より人らしい男の魂はそう静かに宣言し、小さく決意する。


 そう。目の前の尊い価値をここで終わらせてないと。

 静かに灯った覚悟の炎が、彼の魂に強い光を灯す。


 自由に気高く生きた獣の生きざま。

 その尊い輝きが再び運命のことわりに牙を剥く。


 荒神裕也は静かに息をつき、ゆっくりと正面を見据える。

 そして――


「これはお前は掴み取った可能性一端だ」


 少女の頭に一度だけ手を置くと、一歩だけ前に進み出た。

 それは醜く繋がれることを受け入れた獣には決して訪れなかった未来。

 

 不条理と痛みと屈辱に耐え、苦しみながらも。悩みながらも掴み取った可能性。


 人は皆。傷つきながらもその短い生を懸命に生きる。

 時に傷つき倒れることもあるだろう。それでも人は前に進む。


 ≪欲望≫とは前に進むために存在するのだから。


 だからこそ神は――。

 人は、まばゆいほどの魂の輝きに惹かれ、手を差し伸べるのだ。


 救いはいつだって自分自身の中にある。


「胸に刻みつけろレミリア。奴隷としてのお前でなく人間としてのお前の意志が


 その意味を理解した傷だらけの幼い魂が大きく震えだす。

 おぜん立ては整った。

 あとはすべてを終わらせるだけだ。


 ――さぁ戦え。荒神裕也。

 幼き無垢な獣の≪願い≫を。その≪魂≫を守るために――。

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