第二十七話 遅すぎた≪欲望≫の発露とその代償
◆◆◆ 奴隷少女 レミリア――
深い深い闇の底。
揺蕩う意識がもうろうと脳髄を焦がし、胸の奥がやけに熱く感じる。
それでもわたしの両手は自分の心臓を掻きむしることを許さず、けれどその指先は冬の湖に投げ捨てられるような冷たさを感じた。
深く、深く、深く――
意識が水底に沈んでいく。
もう二度と目覚めないような、そんな気がした。
でも、このままのほうがいいのかもしれない。
これ以上痛い思いをするくらいなら。あの人に迷惑をかけるくらいならきっとこのまま一生目覚めない方が誰かのためだもの、わたしのわがままなんて――。
「(ほんとうに、それでいいの?)」
不意に≪欲望≫の塊がを胸の内側に飛び込んでくる。
そうそれでいい。わたしは生きていちゃいけない。多くの人に迷惑をかける。だからわたしはそれを望んで――、
「(あの人に、もう一度会いたくないの?)」
途端、わたしの声であって『わたし』の言葉じゃないような心臓の内側から放たれる。
違う、違う、違う――!!!
こんなのわたしの言葉じゃない
わたしはそんなこと望んじゃいけないはずなのに、抱え込むようにして≪欲望≫をため込むと、身体の奥底からズキンと妙な≪痛み≫が走った。
いっそ一生眠っていたいような気持ちに晒されていたはずなのに。
それがどんなに馬鹿らしい思考であるか解りきっていたはずなのに。思考を止めることだけはできなかった。
どうすればいい? と問いかければ卑屈な闇が答えた。
奴隷に生きる自由はないと。
確かにそうかもしれない。
それでもわたしは――、
◇◇◇
瞼の裏側にほのかな光を感じれば、泥の底から這い出るように唐突に意識が覚醒した。
針を直接脳髄に差し込まれたような鈍い痛みが走り、曖昧な思考がはっきりとしないまま奇妙な像を結ぶ。
「っ!? ……ここは」
慌てて上体を起こせば無理に動かした心臓が軋みだし、痛みに耐えかねて胸に両手を押し当てていた。
白い包帯が右手の目に留まり、額に手を当てればやはりこちらにもカサカサと包帯の感触が伝わってくる。
まるで、暗くて狭い闇の中にいたあの頃のようだ。
そこにはいつもお兄ちゃんとおねぇちゃんがいて。そして――
「……うぅっ」
うずくまるようにして顔を伏せ、額に冷たい汗がいくつも滲んでいく。
地下室のカビついた部屋の匂いではなく、嗅ぎなれた消毒液の匂いが嫌な気を苦を呼び覚ましてしまった。
全身が訴える焼け付くような発熱と喉の渇き。
ぼんやりと霞む視界で首を動かせば、ここがどこだかなんとなくわかった。
白い部屋。たぶん医務室だ。ご主人様に一度だけ連れられて来たことがある。
そう、ご主人様がわたしの身体を切り刻むときに使ったもう一つのお仕置き部屋で――、お仕置き。切り刻む。男の人。痛い。やめて。やめて。やめてッ――!?
ガツンと思わぬ衝撃が脳を揺らし、突如、視界が大きく煮崩れした。
「うぅ、ああ。あああ――ッ!!!?」
フラッシュバックする数々の記憶が、魂を抉り取るように牙を剥く。
思い出さなければ幸せだったのに。思い出してしまった。
頭が、痛い。
呻くようにして腹部に手を当てれば、ズキズキとお腹の中が暴れまわるように痛んだ。思い出すだけで傷が痛み、喉を掻きむしりたい衝動に駆られる。
今すぐ身体がバラバラになってしまいそうなそんな不安と痛み。
えすくようにして過呼吸気味のか細い肩が荒々しく上下に揺れる。
苦しい。苦しい。苦しい――ッ!!
記憶がはっきりしない。
それでも首を絞められた苦しさだけははっきりと覚えている。
あのまま眠り続けていればこんな苦しい思いをしなくて済んだはずなのに。
こんなつらくて苦しい記憶を思い出さずに済んだはずなのに――。
わたしがあの人の服に手を伸ばしたことだけははっきりと覚えていた。
「助、けて。アラガミ様――」
思わず漏れたか細い言葉に驚き自分の浅ましさに涙を浮かべる。奴隷の私がそんな贅沢な救いを許されていいはずないのに。
縋るようにもう一度呟けば、不意に心地よい匂いが鼻先をくすぐった。
「これって、アラガミ様の」
わたしの身体に覆いかぶさるように『あの人』の黒い上着。
思わず震える手で上着を抱き寄せれば、胸の内側が満たされるようなそんな不思議な感覚に囚われ、心地いい香りが胸いっぱいに広がっていった。
どんな思いでこの上着をわたしに置いて行ってくれたのだろう。
どす黒い痛みが緩和し、次第に痛みが引いていくのがわかる。
この黒い上着だってわたしを傷つけ弄ぶ男の人の物だ。
男の人は、わたしにとって恐怖の象徴であるはずなのに。あの人の近くだけは不思議と温かい気持ちにさせられる。
『お仕置き』されて怖かったはずだ。
『お仕置き』されて痛かったはずだ。
けれどもすぐに落ち着けたのは。きっとわたしがあの人のことを■■だから――、
馬鹿なわたしにはこの胸の内側にわだかまる気持ちの名前がわからない。
でもあの人のことを考えても怖くない自分がいるのだ。
「ふくは――」
あんな酷い目にあったはずなのに、あの人に裸を見られたことが恥ずかしくてたまらない自分がいる。
徐々に紅潮していく未熟な身体。恐る恐る上着を剥げば、黒い上着の下は、傷だらけの醜い体躯ではなく、緑色の清潔な薄い服を身にくてていた
ホッと息をつくと共に、戸惑いの感情がわたしの中に生まれる。
こんな変な痛み、わたしの中にはなかったはずだ。
こんなにも自由にものを考え、こんなにも自由に行動する。
まるでこれらすべての感情が造られた偽物だと錯覚してしまうような疼き。
胸の中央に刻まれた奴隷紋に手を触れる。
痛みはない。けれど不思議な酩酊感がわたしの中に渦巻いていた。
この先どうすればいいのかわからない。
布団をかぶって震えるか。ただあの人の帰りをずっとここで待ち焦がれるか。
でも――。
はやる息づかいが髪を撫で、痛む身体を引きづりながらもわたしは医務室を飛び出していた。
自由であることを許されていない身体。
けれどこの胸の内側に内在するのは≪奴隷≫のわたしではない別の誰かの意思だ。
考えがまとまらないまま、あの人の上着を抱え込えて、廊下を駆けぬける。
ほとんど無意識ともいえる愚かな行動。
そして、それはわたしが生まれて初めて自分の意志で≪欲望≫に手を伸ばした瞬間だった。
一刻も早く会いたいという思いがわたしの身体をつき動かす。
盲目的な感情は危険も顧みず無防備に裸足のまま廊下を走りだす。
その視界の端――。
わたしは背後で蠢くもう一つの陰に気づくことができなかった。
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