第二十一話 邪神シュブニグラス
深淵の夜が産声を上げた。
それは幼くけれどもはっきりと悪意を持つ、生命の叫び。
大気が鳴動し、枯れ果てた黒い球体から一枚一枚と闇のカーテンが剥がれていった。
泡立つような水気の混じる音と共に『殻』が崩れる。
果肉が弾け、赤黒い死臭が大地を汚す。剥き出しの黒い触手が幾本も分かれ、水っぽい音を鳴らして地面に落ちた。
その深淵を切り取ったような闇の中央に、一人の裸形の女が立っていた。
見た目だけ言えば年頃の若い娘。
しかし側頭部には人外の象徴たる雄々しい山羊の角が生えており、生まれたばかりの神々しい肢体は闇に爛れている。
恥ずかしげもなく身体を外気に晒すその胸元には、虚に富んだ剥き出しの心臓が生きることを嘲るように厭らしく何度も拍動していた。
黒くて朦朧とした闇の不思議な眩しさに目がくらむ。
それは黒と白の入り交じった死の化身だった。
茶色がかった髪は見る影もなくどこまでも深い奈落の色に染まり、それぞれが意思を持つかのように蠢き、赤黒い体液が生気のない白い肌に滴らせる。
そして焦点の定まらない黄金の瞳から一筋の涙が伝った。
『■■■■■■』
たった一言。
人類の理解できる範疇を超えた言葉が『世界』を塗り替えた。
「――ッ!?」
世界の全てが生きることを諦めた。
そう錯覚するほどの怖気が、全身に伝う血液が一瞬で沸騰させる。
屈服しかけた魂に全身を焼き切るような痛みが走り、顔をしかめる。
「(……ッ。こいつは、やべぇな)」
隣を見れば先ほどまで喧しくルーナの安否を心配していた人間はいない。
原初の本能に魂を奪われ、身構えたはずの身体を恐怖に凍らされていた。
「受肉、した。――というのか」
レイブンのしぼれ出すような声が事態の深刻さを物語る。
祠で対峙した時とは違う圧倒的な存在力。
それは世界を滅ぼすに足りる神々の力をこの場で示していた。
周囲に漂う濃密な魔素は≪呪い≫に転化しており、零れ落ちる闇の雫が大地を黒く犯し尽くす。
むせかえる死臭が彼女の存在の役割を喚起させる。
絶対的なまでの信仰対象。
邪神シュブニグラスとしてこの世に生まれ落ちた女は、マリナ=ローレリアとしての面影を残しながら、その唇を怪しく歪めてみせた。
「――ッ!! 躱せッッ!!」
本能のままの叫びがレイブンの口から解き放たれる。
大地が割れ、濃密な死臭が鎌首をもたげる。
「――くッ!?」
寸でのところで躱したはずの身体に衝撃波の余波が叩き込まれた。
ズタズタに切り裂かれる剥き出しの肌が裂け、鮮血が地面を濡らす。内臓を圧迫する苦痛の叫びが喉元からせりあがり、錆び臭い血潮に変える。
勢いを殺しつつ、素早く立ち上がれば第二波が俺目掛けて飛んできた。
「クッソが!!」
さんざん溜め込んだ≪穢れ≫を刀身に集中させ、勢い良く振り下ろす。
邪気転化。
一瞬、噛み合う衝撃の刃。しかし形を持た邪気を帯びた一撃は、黒曜の能力を以てしても相殺しきれず、肩から入り斜めに喰い込んだ。
「がああああぁああああああああああああああああッ!?」
痛みと呪いの浸食が魂と脳を犯しにかかる。
後方に飛ばされ、無様に地面に転がる頃には、朦朧とする視界が赤く染まった。
暗転する視界。それでも意識だけは手放さず本能で横に飛びのいた。
第三の刃が俺の横を通り過ぎ、大地を布のように裂いてみせる。
「――ッ。荒神さん!! 大丈夫ですかッ!?」
「なん、とかな。……ルーナはどうした」
「安全とは言い切れませんが、アイテムボックスに保管してます」
右手に神殺しを握るヤエの表情が僅かに歪む。
未だにヤエが死んだことが信じられないのだろう。
それでも現実を受け入れ、行動に移すあたりは強者だけのことはある。
ものと判断すればすべてを収納できると聞いていたが、まさか死体まで格納できるとは思わなかった。
その素早い状況判断と発想力に感心しつつも、今はそんなことに意識を割いている場合ではないことを思いだす。
「俺に任せねぇってことは、何か打開策でもあんのか」
「レイブンさんが、祈りに入りました」
たった一言。けれどもその一言ですべてを理解した。
頭の中に組みあがった図式が素早く役割を示してみせる。
「俺は何をすればいい」
「儀式完了の数分、時間を稼いでほしいそうです」
「……例の、儀式か。だがあれは完全に中断したんだろ。使えんのか?」
「いままで神を信仰のぶん無理矢理にでももぎ取るみたいです」
「そりゃ、横暴でいいな」
黒曜を使ってゆっくりと立ち上がり、≪神≫を見据える。
そこには張りのある肌に指を這わせ、肉体があることを喜んでいるような無邪気で冒涜的な女の姿があった。
「邪神シュブニグラス、か。依り代を得てここまで化けるもんなのかよ、クソが」
「ええ。――受肉。噂には聞いていましたけどここまでとは」
「よっぽどマリナとの相性がよかったんだろぉな」
祠で対峙したただの力の塊とは違う。
肉体を持ち、霧散した全ての存在をまとめ上げ、≪穢れ≫と神核をその身に宿すことに成功した神の御姿。
それは御神体なんて紛い物の媒介とは比べ物にならないほど適合率の高い依り代でなければ起こりえない奇跡だ。
ある種の神に愛された者にしか行使できない奇跡。
これが本来の彼女の力。
これで、魂の一端だから笑い話にもなりゃしねぇ。
「まるであの直情馬鹿みてぇな受容量だな、おい」
黄金色の瞳と視線が合う。
怪しく光る切れ長の瞳が、俺の魂を激しく鼓動させる。
……誘ってやがる。
艶めかしく黒い舌を薄い唇に這わせ、白と黒の冒涜的な神の口元が殺戮と愉悦で不気味に歪んだ。
この状況ですら美しいと感じてしまうのだから、俺の感性もどうにかしている。
すると横から横から声が飛んできた。
「ああいうのが好みなんですか?」
「あん!?」
見れば膨れていた。
いのちを掛けたこんな場面で頬を膨らませ嫉妬で眉をひそめている。
「確かに色白ですっごくきれいでそれに荒神さん好みの冒涜的なまでに美しい肢体ですけど、あんな奴よりわたしのほうがよっぽど美人です」
「――はっ、こんな時までそれかよ、テメェは」
「ふん。当然です!! 荒神さんに色目を使っていいのはわたしだけなんですから。それが例え、高名な邪神様であっても許しません!!」
「いつから俺はテメェのものになったんだ」
そう言って鼻を鳴らしてやれば、悪戯っぽい笑みが返ってくる。
いい感じに肩の力が抜けていく。
そうだな。せっかくの楽しい宴だ。緊張でうまく踊れませんでしたなんて童貞臭いことは言ってられねぇな。
「さぁて、死ぬ気で踊るか」
「ふふっ、死ぬときは一緒ですよ荒神さん」
「テメェと一緒なんざ死んでも御免だ」
視線が交じり合う。
それは背中を預けるための一種の儀式。
瞬時に振るわれる邪神の猛威を前に、俺とヤエは言葉もなく同時に飛び出した。
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