第十八話 信仰の寄る辺
ダムが、決壊した。
俺じゃない。いま目の前で固まるヤエの。
声色が震え、目元いっぱいに涙を浮かべている。
「あーらーがーみーしゃーん」
両手を広げ飛びついてくる姿はまさしくガキそのものだ。
普段、変態女というイメージが強いぶん、こいつの人間らしい部分を初めて垣間見たような気もする。
闇夜に紛れたマリナの姿を心霊現象か何かと勘違いしたのだろう。
どことなく天照の幼少期を思い起こさせるが、今回は鬱陶しいことこの上ない。
強引に引っ付いてきたヤエを無理やり引き剥がすと、鼻を啜る音と共に耳元で泣き言が返ってきた。
「いつまで引っ付いてる気だ、さっさと離れろ」
「だ、だってぇ。わたし幽霊とかホントダメでぇ、その他だったら全然平気なんですけどぉ」
一回、派手に泣いたせいで涙腺がもろくなっているのかボロボロと派手に涙をこぼし始めた。その後ろで、控えめに立つマリナもまさかここまで驚くとは思っていなかったのだろう。目を丸くして俺を見上げていた。
「……あ、あーでもよかったマリナちゃんで。もしマジものの幽霊だったら全力で滅していたかもしれません」
「驚きすぎだろ」
「だって後ろからぎゅって掴まれたんですよ、ぎゅって!? そりゃ誰だって驚きますよ!!」
「……ごめんなさい」
か細くなる謝罪の声に、ヤエは今度こそ絶句した。
なにせその大きな茶色い瞳に涙を浮かべているのだ。
案の定、二回りも大きいヤエがわかりやすく狼狽えだした。
「あ、あっ、その、違います。マリナちゃんが悪いとかそういうのではなくてですねわたしは大丈夫ですからああ泣かないで――荒神さんどうしましょう!!」
「知らん」
荒神さんッ!? と上ずった声で救難信号を送ってくるがあいにく子供のあやし方なんぞ知らない。
そのまま視線を逸らしてやれば、絶望的な表情が返ってきた。
しかし――、
「(何を悩んでやがんだこのガキは、この程度で泣くようなたまじゃあるまいに)」
うつむいたまま一向に動かないマリナ。
その瞳に、並々ならない暗がりが見え隠れしている。
罪悪感ではない。あれは――。
見かねて口を開きかけたところで、
「どうしたんですかこんな暗がりに一人で、みんなと遊ばないんですか?」
空気を読まないヤエの声が被さった。
視線を外せば確かに、マリナと同じ年ごろの子供たちが焚火を囲んで遊んでいる。
ついさっきまで生存すら怪しかった状況のあとに無邪気なものだ。
本来ならマリナもあの子供たちと同じ輪の中で遊んでいてもおかしくない。
少なくとも仲間外れにされるような子供じゃないのは確かだ。
子供によくある喧嘩かと疑問に思うがどうやら違うらしい。
腰をかがめて訪ねるヤエの言葉に首を大きく横に振ってみせた。
「じゃあどうしたんです? わたしでよければ聞きますけど」
「――たの」
「はい?」
「森を見てたの」
その小さな唇からか細い言葉が漏れた。
「森、ですか?」
こくん、と首を動かすと、その視線はヤエではなく背後の始まりの森へと向けられる。
闇と完全にどうかした黒い塊。
風が波たてば音を鳴らし、形を変える闇は、昨夜と比べるとどことなく空虚な張りぼてのように感じられた。
「どうして始まりの森なんかを? あそこにはもう何も――」
と言いかけヤエの言葉が不自然に止まった。
そのことを認めたのか、マリナの表情に影が差し、
「わたし、嫌だな」
はっきりと意志の篭った言葉が空気を引き締めた。
肌に突き刺すような寒気が背筋を震わせ、静かなけれども強い訴えが脳内に響く。
それは十歳にも満たない子供が出していい存在力ではなかった。
何かがおかしい。
けれどもその違和感をはっきりと感じられないうちに、違和感は霧散し、マリナの口から悲しみが零れた。
「村の皆は、これから王都の神様を信仰しようって言ってる。守り神様のことは忘れて、新しい神様を崇めようって」
「それは――」
「ねぇ、おねぇちゃん。マリナも守り神様のこと、忘れなきゃダメなの?」
それは純粋な子供の疑問だった。
なぜ人は生きているのか、そんな世界の真理を追究するような無邪気な問い掛け。
マリナは見てのとおりまだ幼い。村の常識や世界の理を話したところではっきりと理解させるのは難しいだろう。
そういうものだから。
そう言って言葉を濁し、うやむやに答えることは簡単だ。
けれど、ヤエは決してマリナを子ども扱いしなかった。
「マリナちゃん、聞いて。マリナちゃんは、これから守り神様なしで生きていかなくちゃいけないの」
静かに吐き出された言葉に呼応して、大きな瞳がヤエの心をのぞき込む。
全ての感情を無理やりにでも押さえつけ、唇を引き結んでいる。
指先はきつく結ばれ、瞳には大きく蠢く涙の粒が浮かんでいた。
齢十にも満たない子供。
それでもその純粋な瞳には、全てをのぞき込み詳らかにする力があった。
「なんで」と言葉にならない口の動きが、ヤエの言葉を詰まらせる。
強い瞳の光に気圧される形でたじろぐヤエ。
しかし、すぐに緩く首を振るとその小さな肩に柔らかく手を置き、一人の年長者としてはっきりと幼子の疑問に答えた。
「古き神を忘れ、新しき神を信仰する。……確かにそれだけ聞けば白状に聞こえるかもしれないけど、村人の皆さんが言うことは間違ってはいません。この森周辺には、ただでさえゴブリンやオークと言った魔物が巣くっています。神々の加護なしに生活するのは厳しい環境なんです。それはマリナちゃんも知っているでしょう?」
「どうして。……どうしてそれで守り神様を忘れなきゃいけないの!!」
「……個人で守り神様を信仰する分には構いません。でも、村全体を他の神さまに守護してもらうのなら誰一人として信仰心が欠けてはならないんです」
「そうしないと、村を守るための十分な加護が得られないから?」
「そう。……それが例え、今は亡き土着神のためでも例外はないの」
「守り神様を、お兄ちゃんたちが殺したのに?」
純粋な言葉がヤエの言葉を鈍らせる。
それでもヤエはマリナの目を見続け大きく頷いた。
「ええ、確かにわたし達が村の守り神様を殺してしまった。そこに関しては言い訳するつもりはないよ。……でもこの村で生きていくのなら、マリナちゃんは守り神様のことを忘れて生きていかなくちゃいけないの」
「そんな、そんなのって――」
零れ落ちた涙を隠そうともせず、睨みつける茶色い瞳に、別な色が灯る。
それは怒りであり、嘆きだった。
「ねぇなんで殺しちゃったの。あんなにみんなのことが大好きだった神様を。――邪神になったって守り神様は守り神様なのに。ねぇどうして!? どうして守り神様はわたしたちに殺されなきゃいけなかったの!!」
「……マリナちゃん」
昨日までの無邪気なマリナからは考えられないような荒んだ声と激しい言葉。
何度も何度もその小さな拳がヤエの胸を捕らえ、その拳が胸を抉るたびに黒曜石の瞳も僅かに揺れる。
どうすればいいのかわからず伸ばしかけた手さえ、泣き縋る少女は拒んでみせた。
「お別れなんてしたくない。守り神様は、まだ生きているんだ!!」
苦しげに胸を押さえつけ、どこかに走り去ってしまう。
それを追うことは俺達には許されていない。
喧騒が村の中心から聞こえてくるなか、闇に紛れて幼子の悲痛の嘆きが風に乗って聞こえてくる。
そしてここにも一人、泣き出しそうに背中を丸めている少女がいた。
大きく重いため息が一つ、夜の闇へと溶けた。
全ての悪をその身に引き受けた少女が、小さく声を漏らす。
「……荒神さん。わたし、間違ってましたか?」
「テメェはなに一つ間違ったことは言っちゃいねぇよ。なに一つな」
「そう、ですよね」
それでも気分が晴れないのは、マリナの泣き顔を見てしまったからだろう。
「村の守り神を討滅させた時点で、村の人からある程度の非難は覚悟していたんですけど、――やっぱりキツイですね。こういう役割って」
「それでも今後、あいつがこの村で無事に生きていくためには必要な措置だった。集団生活で孤立した人間の末路は悲惨だ。特にこんな孤立した集落じゃあな」
貧民街でも周囲に馴染めず死んでいった命がいくつもある。
俺もその命の一つだ。
自ら暴走して周囲を巻き込み、多くの命を散らしてしまった。
結局、周囲から孤立した人間がとる末路は。
一人野垂れ陣で死ぬか、周りの全てを巻き込み自分が生き残るかの二択しかない。
その宿業を齢十にも満たない子供に背負わせるにはあまりにも酷というものだ。
「俺の悲劇を知っているからの言葉なんだろうが、あんなガキまで俺と同じ道を歩む必要はねぇ。テメェが言わなかったら俺が代わりに言っていた。だから気にすんな」
「……ありがとうございます。励ましてくれて」
「そんなんじゃねぇよ」
それがどんなに受け入れがたい事実でも飲み込むしかないときはある。
どうしても呑み込めなければ抗うしかないのだ。
そしてマリナにはそんな力はない。
となれば辿る道筋は一つしかないだろう。
「あの子は実際に守り神様に助けられたことがあるらしいんです。川でおぼれていたところを助けてもらった。……そう自慢げに語っていたのを覚えています」
「それでも神と人間の考え方は違う。気まぐれに助けただけの存在かもしれねぇんだ。それであのガキの一生を食いつぶすわけにはいかないだろう」
「ですから、なおさら邪神に堕ちたことがショックなのでしょう。あの子は本当にここの土着神を心から慕っていたので、……可哀そうなことをしました」
どこか遠い目で盛大に上がる炎の見る。
聞けば土着神が邪神に堕ちる大半の理由が、信者の信仰心の腐敗が原因らしい。
それに神が絶望し、信者を呪い邪神になり果てる。
全てが確定だと根拠を持って言えるわけではないが、教会の見解はそのようになっているらしい。
だから村の者も必要以上に土着神を貶めたり、邪な願いで信仰しないよう気を付けていたらしいが、
「あの様子じゃ、自分の不信仰が土着神を邪神に変えたとでも思ってんだろうな」
「そう思っていても不思議でないかもしれません。現に、レイブン卿に神託が下りたという現状を聞かされて、ルーナちゃんも自分の不信仰に泣いていましたし」
「……あいつがねぇ」
視線をヤエから焚火の中心に逸らせば、そこには今も騎士の給仕に忙しいルーナの姿もあった。
どこか張りついたような笑顔を浮かべているが、その表情はややぎこちない。
「村人の皆さんも自分たちが薄情者だときっとわかっているんだと思います。だからせめて今日くらいは明日への不安を忘れて、乗り越えようと必死なんですよ」
数百年と村々を守り続けてきた土着神が邪神に堕ちたのだ。
当然、その加護が途切れれば順風満帆な生活とはいかなくなるだろう。
ヤエの話では、聖王都が信仰する五柱教に改宗するのではないかという話がすでに持ち掛けられているそうだ。
神々の加護を失った村というものは立場や存在的にも弱いものになるらしい。
水面下でルーナの親父とレイブンでそういった話が推し進められていてもおかしくはない。
何もしなくても明日はやってくる。
ここの連中は、それがわかっているから嘆きはすれど、足を止めることはない。
「神と人では時間の流れが違います。当たり前ですが、わたし達は彼らと本当の意味で一生を過ごすことはできません。彼らにしてみれば昨日のような出来事もわたし達にしてみればとてつもなく長い一生ですからね」
だからこそ神からしてみればその信仰心は尊いものなのだろう。
神は人の目に見えることはない。
それは存在が希薄なうえに、選ばれた者しか目にできないからだという。
けれどその目に見えない存在を多くの者たちは愛し、崇めてくれる。
自分は確かに存在する。
そういった証を込めて様々な土着神はその大きすぎるほどの天恵を人間に与えているのかもしれない。
どういう経緯に至って『彼女』が邪神に変わったのかはわからない。
けれども、少なからず『彼女』はこの村の住人を愛していたはずだ。
「俺には神の愛情なんてもんはわからねぇ。利用されるだけ利用されて掃き捨てられる人生だ。それがあのクソ神たちなりの愛情だったかはさておいてな」
「たしかに≪Suicide Crown≫の神様たちは結構やりすぎていたところがありましたけど」
「神だから感覚がねじ曲がってんだよ。自分たちに利用されることこそが最上の喜びだと勘違いしてるやつらだからな。あの邪神のほうがまだ可愛げがあるかもしれねぇ」
あれを愛情と呼ぶのならこの世の全ては愛で満ちていることになる。
少なくとも俺はそこまで盲目になったつもりはない。
束縛し管理する愛情など、ただの自己満足にすぎないのだから。
「結局は互いに依存しちまってるってことなんだろうな」
「ええ、そうなんでしょうね。……だからこそ、わたし達は彼らとの関係を見極めて生きていかなくてはいけないんです。どんなに心地よくてもどこかで関係に区切りをつけなきゃいけない時が来るから。……一方的な、浅ましい人間の考えですけどね」
「ふっ、神からすればとんだ裏切りなんだろぉがな」
だがそれを裏切りと捉えてしまう時点で目的はすり替わっているのだ。
人間は自分たちが神から守ってもらえるもの存在なのだと誤解し。
神は崇められて当然だと思いあがる。
欲に目がくらむのは神も人間も同じだ。
「ギブアンドテイク。いうだけなら簡単ですけど、やっぱりこういった関係は難しいですね」
「まっ、互いに利用しあってればそういう結末は少なからず訪れるもんだ。結局、善行に見返りを求めた時点で全ての行いは堕落するんだよ」
何が間違っているとかではない。
ただそういう命とは、生き物とはそういうものであると認識しなければいけないのだ。人も神も。
焚火を囲む村人を眺める。
宴もそろそろ終わりが近づいている。
徐々に薄暗くなっていく篝火を見つめていると、隣の方から勢いのいい柏手が聞こえてきた。
「ああ、そういえばまだ言ってませんでした!!」
「んだよ急に。また何かやらかしてんのか?」
「いえいえ、そういうのじゃなくてただ純粋に今日中に伝えたいことがあっただけです」
そう言って、気持ち悪い動きで正面に踊りでると、
「今日は、お疲れ様でした。すっっっごくかっこよかったです」
満面の笑みを浮かべて、黒曜石の瞳を輝かせた。
「本物の不倶戴天をこの眼で見られるとは思いませんでした!! 推しの必殺技があんなにかっこいいなんて、……想像の千倍は超えていました!!」
「テメェもつくづく安い奴だな。あの程度で満足なのかよ」
「はいっ!! あ、そういえば結局レイブン卿の聖別礼装、使う機会がありませんでしたね。あんなに準備したのに」
「ああ、そういやぁそうだな。もう邪神はいねぇんだろ? いつまで神気を垂れ流し続けるつもりだ。さっきから神気臭くてかなわねぇんだが」
「へ? 神降ろしの儀式ならもうとっくに中断しているはずですけど」
「……なに?」
不思議な間があった。それは胸の内側にあった違和感を徐々に大きくさせていく。
森の中で感じたいるはずのない存在。
マリナの内側に宿る違和感。
いまだに漂う神気の香り。
眉をひそめ、考え込む。
「――ッ!? まさか」
全てがつながったときにはもう遅かった。
始まりの森で大地を震わせる嘆きの爆発があった。
天をも震わせる深淵の影。
それは森にすむすべての存在を呪う怨嗟の声だった。
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