とん、

春川碧

バグ

Grind

 とん、と背中を軽く叩かれる。

 叩く、というより触れる、という表現の方が正しいくらい非常に優しい力なのだか、それでもびくっと体が跳ねてしまう。

 何度経っても、この感覚には慣れない。


 一旦キリのいいところまで進んだところで中断し、ヘッドセットを外す。

 現実世界への帰還だ。


 さすがに何時間もぶっ通しだと、疲労感も相当なもので。しばらく放心したのち、安定しない体をなんとか動かして、ふらふらと部屋を出た。




 1階に降りると、既にしんとした部屋の中、テーブルの上で僕の分の夕食だけが寒そうに僕を待っていた。どうやら思ったより時間が経ってしまっていたらしい。


 椅子を引いて座ると、まずは味噌汁に手を伸ばす。


「一口目は味噌汁にしたら、血糖値が上がりにくいんだって!」


 なぜか自慢げにそう言った彼女の言葉を、なんとなく守っているのだ。



 口をつけると、既に冷たくなった液体が流れ込んできた。と同時に、底の方に沈んでいた具が姿を現す。

 なんだかごちゃごちゃしてるな。もっと豆腐とワカメくらいの、シンプルな方が好みなんだけど。

 それでも、残すのはなんとなく気が引けて。頭の隅の方で、彼女が怒っているような気がして。無心でごくごくと飲み干していく。

 ……最後に残った、味噌のかすと細かい具の残骸。これくらいは勘弁してもらうとしよう。きっとこれくらいなら、彼女だって許してくれるに違いない。


 お椀を置いて一息ついたら、次は小鉢。しっとりとした濃い緑の葉に白い粒をまとったこれは、ほうれん草の胡麻和えか。僕が唯一と言っていいほど、抵抗なく食べられる野菜。特筆することもなく、ぱくぱくっと食べてしまったら、次のお皿へと移る。


 次はいよいよメインだ。白い角皿に横たわる、ピンクの切り身。綺麗な焼き色がついていかにも美味しそうだが……どうだろうか。一抹の不安を感じながら、ゆっくりと箸を伸ばす。


 ……辛い。やっぱりだ。

 どうせまた近くのスーパーの塩鮭を買ってきたんだろう。あそこのは安いだけで美味しくないっていつも言ってるのに。

 さすがにこれを全部食べるのは、逆に健康に悪そうだ。極々少量の身だけをとって白米で流し込むことにする。


 ああ、やっぱりお米が一番だ。鮭の塩気がその甘味を引き立てて……いや、やはり少し塩気が強すぎる気もするが……しかし、美味い。

 スイッチひとつでこんなに美味しく炊けるんだから、本当に素晴らしい時代に生まれたものだ。

 そのまま茶碗の中身を一気にかき込んで、口の中いっぱいに広がるその甘味を味わう。



 ちなみにこの食べ順、とやらも彼女から教わったものだ。汁物から始まり、副菜、主菜、そして炭水化物が一番最後。なんでかはよく分からないが、その方が太りにくいらしい。


 彼女と出会ってから、無駄に健康に関する知識が増えた気がする。

 そんな彼女自身は白くてか細くて、ちっとも健康そうには見えないのだけど。



 ご飯を最後の1粒まで綺麗に平らげたところで、食事を終える。ついでに軽くシャワーを浴びて部屋に戻ったら、再び別世界へと飛び立った。






 ***






 うっすら意識が浮上したところで、頭上で体を震わせながらアピールするスマホに気づく。思わず眉をしかめながら手を伸ばして、時刻を確認して。

 ん、もうこんな時間か。急がなければ、遅れてしまう。

 再び閉じそうになる瞼を必死でこじ開け、二度寝の誘惑から逃れようと、無理やり重たい体を起こす。


 昨日は、つい熱中して遅くまでやりすぎてしまった。おかげで中ボスは攻略できたけど、さすがに3時間睡眠は辛い。




 1階に降りると、すでにテーブルの上に朝食が並んでいた。家族もみんな揃っている。どうやら僕が最後だったようだ。


 最近朝は決まって、家族でそろってご飯を食べることになっている。


「いただきます」


 それぞれが手を合わせて食べ始めたあと、今日の晩御飯は何がいいとか、今度いつ出かけてくるとか、各々がぽつりぽつりと話しだす。家族全員が唯一顔を合わせるこの時間は、相談の場であり、報告の場であり、“一家団欒”の場ともなっているのだ。

 誰が決めたわけでもない。夕食は時間がばらばらであることに加え、他の時間も別室で過ごすことが多いため自然とこの形になったようだった。



 みんなの言葉をぼんやり聞き流しながら、お皿に手を伸ばす。


 朝は、順番なんて気にしない。気にするほど品数がないのもあるが、そもそも何かを口にするだけでも随分進歩した方だ。彼女と出会う前は、朝食抜きが普通だったのだから。



 朝のメニューは決まって、トーストと目玉焼き、コーヒー。


 まずはトーストにイチゴジャムをたっぷり塗って、かぶりつく。

 甘い。でも、この甘さがいい。

 実は僕は甘党なのだ。コーヒーにも、砂糖とミルクをたっぷりと入れて頂く。


 目玉焼きは、見るからに黄身が固まりすぎていたからやめておく。

 こういうパサパサなのが、1番最悪だ。唇の裏から喉の奥まで貼り付いていくような、あの感じ。

 かと言って、ドロドロなのも遠慮したい。食べ応えがないというのもあるが、気づかぬうちにどこかが破れ、お皿に流れ出てしまったときのあの腹ただしさといったら。

 ギリギリ形を留めているくらいの、トロリとした食感がベストだ。




 7:20過ぎに家を出る。

 今日はいつもより少し遅くなってしまったから、急がないといけない。

 早歩きで5分程行ったところで、坂にさしかかる。

 ああ、やっぱり目玉焼きも食べてくれば良かった。寝不足の体は、もうふらふらだ。

 それでもペースは崩さず、なんとか登っていく。


 坂の頂上が見えてきた。その先に、彼女が待っている。

 良かった、間に合ったようだ。


「おはよう」

「……おはよ」


 朝から元気な彼女に、乱れた息を隠しながらぽつりと挨拶を返した。


「もー、また夜更かししてたんでしょ」

「しょうがないだろ、なかなか区切りがつかなかったんだから」

「程々にしなさいよ」


 まるで母親みたいな口ぶりだけど、その呆れ顔さえも、やはりかわいい。


 きっと将来本当にの母親になっても、君はずっと変わらずかわいいんだろう。子どもと戯れる君の姿が容易に想像できて、思わずふっと笑いが漏れる。

 慌てて彼女の方を見たが、幸い気づいていないみたいだ。


 僕はほっと胸をなでおろし、彼女にペースを合わせて歩き出した。





 ***



 帰宅。

 家に帰れば、楽しみは一つしかない。

 荷物を置いて、すぐにヘッドセットを装着する。








 とん、と背中に何かが触れた気がした。



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