アールヴの料理人

まきや

アールヴの料理人



 配達用の三輪トライクが、小さなブレーキ音をたてて道端に止まった。


 バイクから華奢だが長身の若い女性が降りてくる。半袖のラフなTシャツを着て、前掛けにスリットのあるフローリスト・エプロンを巻いていた。下はいつ汚れてもいいGパン姿で、スニーカーはだいぶ履き込まれていた。


 ヘルメットを脱がなくても女性とわかるのは、首もとに長く編み込まれた黒髪が見えたからだ。


 彼女はキャップを脱いで、紐をバイクのハンドルにかけると、後部のトランクの方に歩いた。ロックを外して中からリボンの付いた大きな包みを取り出す。腕だけで器用に扉を閉めた彼女は、左右の通行を見てから、歩道を渡り、小さな店の前に立った。


「ここか」


 赤い屋根が目立つ、レンガ造りの建物。正面のウィンドウからは並べられた椅子とテーブル、それに敷かれた白いクロスが見える。明らかに飲食店だった。


-elf-アールヴ


 入り口の扉のガラスには、小さな花と木々の絵とともに、そう描かれていた。


 女性は扉を押し開けると、荷物と一緒に中に入った。


 ドアベルが鳴って、やがてドアが自然にバタンと閉まった。


 狭い店内は無人だった。お客の声もしないし、店員の人影も見あたらない。彼女はあたりをさっと見渡した。二つだけ置かれたテーブル席を除けば、カウンターでの飲食がメインの小さなレストランだ。


「フローリスト・シシリーです。お花を届けに来ました!」少し大きく、澄んだ声は店の中でよく響いた。


 反応はない。もう一度。先程よりもさらに大きく、奥に一歩近づいてみて。


 やがて、カウンターと厨房を遮るアイボリー色の暖簾のれんがふわりと動いて、スタッフらしいピンク髪の小柄な女性が顔を出した。


「はいはいはい、お待ち下さいねーって、あれ……お姉ちゃん?」


 姉と呼ばれた女性の態度が、配達員のかしこまったそれから、少し緩くなった。持っていた荷物をカウンターにぽんと置いて、自分から包み紙を解き始めた。彼女はちらりと妹の顔を見た。


「ミツキ、久しぶり。ふふ、相変わらず頑固なのね!」何をもってそう言ったのか。彼女は妹の顔ではなく、頭を見てクスクスと笑い出した。


「うるさいなー」店員の若い女性、ミツキは頭頂部にぴょんと一本だけ飛び出ている髪房を、掌で上から押さえ込んだ。しかし離すと、すぐに戻ってしまう。


「仕方ないじゃん。つむじがふたつもあって、渦が重なってるんだもん。一生治らないよ。お姉ちゃんこそ、髪切りなよ。玉ねぎヘアになってる」


「いいの。仕事の邪魔にならないようにはしてるから」そう答えながら、姉は荷物の中から陶器の鉢を取り出した。内側には大きめの花々が詰めて並べられていた――プリザーブドフラワーだった。


「あなたがここで働いているって聞いたので、持ってきたの。せめて連絡ぐらいしてよね。本当に偶然、知ったんだから」姉はカウンターの上に置けそうな場所を探して、飾ってみた。花の色が木目の背景によく映えて美しい。


「ありがとう! さすがプロ、ちゃんと匂いのしないのを選んでくれてる」


「そりゃあ、ね。花はピンクローズ。きれいでしょう?」


「手間もいらないしね。フローリスト・シシリーの店長様が、じきじきに届けてくれるなんて、大変申し訳ございません」ミツキはわざとらしく敬語を使って礼を述べた。


 最初、店長は妹の冗談に笑いながら応じていたが、すぐに真面目な顔になった。「ねえ、一人でお店を持つこと、もう諦めたの?」


 ミツキは無言のまま、質問する姉の方に向き直った。けれど視線はずれていて、外の窓の方をぼんやりと見ていた。


 姉は直感で、ミツキはここの店員であり、店長やオーナーでは無いだろうと思っていた。そして今それが確信になった。けれど、本当に妹の選んだ答えなのかどうかは、わからないままだった。


 能面のような相手の顔を見る限り、いきなり切り込み過ぎてしまったようだ。答えにくい質問をしてごめんね――店長は気持ちを言葉にしようとする。


 けれどいま変わったミツキの表情の不可解なさまを見て、はたと唇を閉じた。ええと、これは何の気持ちだろう。困惑、それとも疑い?


 そうしている間にも、ミツキはますます怪訝な顔になっていった。「あれ……ここに何か?」


 薔薇の花へと伸ばしたミツキの指が、突然何か・・にぴしゃりと弾かれた。


「失礼ね! 触らないでよ!」花のすぐ上に小さな手がすっと現れ、甲高い声が店内に響いた。ただしそれは通常・・の人には見えざる姿と聞こえない音だった。


「ごめんね、ミツキ。ついてきちゃったのね……」すまなそうに店長が片目を閉じる。


「ちょっと、店長さん。私をあなたの店の毛むくじゃらのペットみたいに、言わないでくれる?」小さな声の主は、キーキーと苦情を申し立てた。


「メアリー・バーカー……」ミツキはその姿に、うめき声を上げた。


「『メアリー・ミク・ヴィダ・バーカー』です! 長い名前で呼ぶ場合は、正確にお願いします!」妖精はぷんぷんと訴えた。「まったく……狭い中に閉じ込められて腰が痛くなっちゃった!」


 そう言ってメアリーは、背中から生えた羽を使い、女性の掌ほどもない体を宙に浮かび上がらせた。『人』たちからの視線の集中も気にせず、リンドウの花で出来たスカートを引っ張り、ヨレを直し出す。


「どうして、ここにいるの?」ミツキは小さな妖精から視線を外せず、ただ困ったように聞いた。


「ある事があってから、何だかうちのお店に居着いちゃったの。『人に渡される花たちの幸せを、私がちゃんと見守るんだ』って……」店長はため息をついて、椅子に座り込んだ。

 ミツキには姉の気持ちが痛いほど理解できた。「大妖精マーマに告げ口して、追い出しちゃいなよ! 迷惑じゃない」


「まあ、普通の人には見えないし、見守るだけ・・なら害は無いし……」


 そんなやり取りが聞こえたのかは判らないが、メアリーが厳しい目で姉妹を睨みつけた。いつの間にか頬が豆みたいに膨らんでいる。


「大体なによ、この『ぷりざあぶど』って。このたち、私が話しかけても、眠ぼけてるみたいな返事しかしないじゃない! こんな状態でお花たちが人を幸せにできて? 生きる権利の侵害だわ! ねえ、そこの猫さん。そう思うでしょ? 花の妖精の仕事に対してだって冒涜よ! プロの妖精の流儀というものはですねぇ……」


 テーブルの下にいた店の飼い猫が、大きなあくびをした。


「害は無い。うるさいって以外にはね」妹は姉の言葉を引き取って、うんざりと言った。



 不意に二人の会話を遮るように、入り口の方から、カランというドアベルと革靴の足音がした。


「おっと、お客さんだ。お姉ちゃんはコーヒー……じゃない、紅茶かな。準備するから飲んでいって。メアリーの面倒もね。いらっしゃいませ!」



 ――――――――――――



 黒いスーツ姿の男性は中年だった。ネクタイはしていない。以前は整えられていたのだろうが、いまは額の上の髪が、いちど掻きむしったかのように乱れていた。


 彼は目に見えて硬い表情のまま、よろよろと歩き、カウンター席のひとつに座り込んだ。力なくと言っていい。姿勢を保つのも辛そうで、座ったあとも肘をついてうつむいていた。


 いちど店の奥に消えたミツキが、すぐにおしぼりと水を手に戻ってきた。それを店長から四つ隣りの席の、男性の前に静かに置く。


「ご注文はお決まりでしょうか?」ミツキが明るい声で訊いた。客が暗い分、少しでも元気に迎えたかったのだろうと、妹の性格を知る姉は思った。


「……何でもいい。あんたが見繕ってくれ……飲み物とい物を」男が苦労して発した言葉はそれだけだった。


「承知しました。私の方で選んでお持ち致します」ミツキは丁寧に答えると、厨房へと戻っていった。


 店長は明らかに彼から悲壮な何かを感じ取った。とても悲しく辛い出来事があって、どうやら男を徹底的に打ちのめしたらしい。


 きちんと食べていないのだろう。コップを握ろうと伸ばす手は痩せ、細かく震えていた。店長には全部が良くない兆候に思えた。


 しばらくして、ミツキが戻ってきた。木製のトレーの上に、お茶の用意が一式とスープの皿を載せていた。


 彼女は先に中年のお客の前に歩いていき、トレーからスープを取り出した。


 かぐわしい匂いのする柔らかなカーブを描く煙が、陶器の皿のあとを追いかていく――ミツキはスプーンと器を男の前に、丁寧に給仕サーブした。


「『スープ・ド・フェイ』といいます。名前はそれっぽいですが、要するにコンソメスープですね。温かいうちにお召し上がり下さい。『アールヴ』では最初の出汁ブイヨンは鶏ガラを使います」一見するとアルバイトのような風貌のミツキから、驚くほど流暢な説明がポンポンと出てくる。


「そこに子牛の脛肉を入れ、さらに野菜と共に煮込むんです。ワインも少し加えますね……それを何度も何度も、徹底的に濾していきます。だからこの澄んだ色になるんですよ」


 中年男は最初、何の反応も見せていなかった。けれど漂ってくる匂いが男の口髭に流れ着くと、彼は鼻をひくつかせ、顔を上げた。


 ミツキは客の表情の変化を見てから付け加えた。「お酒を飲むバーでも、コンソメスープを最初にお出しする店があります。体を温める他にも、スープの脂が弱った胃を守ってくれるんですよ」


 スープをじっと見つめている彼を残して、ミツキはカウンターから離れた。そうして姉の方に行き、お湯のポットとカップを置くと、目配せをしてからまた厨房へと帰っていった。


 中年男は毒でも入れられたような表情で、スープと暖簾とを見比べていた。けれどどちらにも何も変化が起こらない事がわかると、少しづつ皿に顔を近づけ、ひと口だけすすってみた。


 男の目にあった暗い陰りが、驚きで無くなった。額の厳しい皺がなめらかな起伏に戻っていく。


 茶葉を蒸らす時間を待ちながら、店長はその様子をひっそりと眺めていた。彼は口に出さないが、美味しいと感じたのは間違いなかった。


 男は隠すように厨房に背を向けると、ずずっという音と共にスープを一気に飲み干してしまった。


 その時――。


 厨房のカーテンの奥から、何か黄色と青の光が漏れてきた。男は見てもいないが、店長はすぐに気づいた。


 その光の奥で複数のキーキーと言う、甲高い会話のような声がしてくる。光は声の調子と連動しているように強くなったり、弱まったりしていた。


 店長が耳をそばだてていると、ミツキのひそひそ声も少し聞こえた気がした。


 やがてピタッと音が止み、静寂が訪れる。また少し間があいたのち、するするとそれら・・・が出てきた。


 たんぽぽの綿毛か、それより少し大きいぐらいの球体。ふわふわと空を舞い、器用にカーテンの下をくぐって、お店のカウンターの上に浮かびだした。


 数は全部で三つ。最初はゆっくりだったが、段々と動きが機敏になり、編隊のように列を組んで飛び出した。綿毛は中年の男の頭の少し上で、ぴたりと止まった。


 テーブルの下で――誰も訊いてくれなかったので――不貞腐れ、猫の背中に寝ていたメアリーが、不意に顔を上げて目をしばたかせた。


「あ、フェイたちだわ」


 メアリーの言葉がきっかけになったかのように、その毛玉たちは輪を作り、くるくると水平に男の頭上を回り出した。スピードが上がっていき、それが白い輪のように見えだすと、そこから白いキラキラ光る何かが、男の頭にむかって落ちていった。


 やがてキラキラは薄くなり、消えてしまった。フェイと言われた毛玉たちも、だんだんと小さくなり、やがて見えなくなった。


 中年男はそんな事にはまったく気づいていなかった。それどころか、スープの温かさと旨さに張り詰めていた気持ちが緩んだのだろうか。座ったまま、うつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。


 男の頭が一段と大きく、ガクッと前に傾いた。その拍子に、いきなり頭部と同じぐらい大きな光球が、男の頭上に勢いよく飛び出してきた。


 男が連続して眠りの振動を続ける都度、その球体はポンポンと出てきて、やがてレストランの頭上がたくさんの風船球に覆われていった。


「フェイは記憶に入りこんでイタズラする妖精。これはその男の記憶ね」寝息をたてる猫のお腹の上で肘をついて、メアリーが上下に揺れながらつぶやいた。


 浮かんでいた球を見ていた店長は、その中心にぼんやりとした映像が現れたのを認めた。


 映像はさまざまだったが、共通して映っている女性がいた。彼の大事な人、おそらく奥さんだろうと店長は思った。


 ひとつには、女性が友達と喋り笑い合う姿が映し出されていた。どんなに他の人が混じっていても、映像の中心は常に彼女だった。


 ひとつには、優しそうな笑みを浮かべ、彼と手をつないで歩いている風景が映っていた。


 手料理を食べてもらっている姿、喧嘩して雨の中で泣き叫んでいる姿。そして、彼に指輪を差し出されうるみ泣いている姿……


 どの球にも彼女の笑顔と、溢れるような幸せが満ちていた。これら全部、男が奥底で大事にしてきた貴重な記憶なのだろう。


 けれど――店長は気づいてしまった。ひとつだけ漆黒の球があった。そこに映っている過去のせいで、その球には悲しみだけが詰まっていた。


 笑っていない女性の姿。彼の腕の中で、頭から血を流して、眠るようにまぶたを閉じている。男は泣いていた。なぜだ……違うのは息をしていない事だけなのに。



「私がこの方の記憶をここに浮かび上がらせたの」


 彼方からミツキの声が響いた。店長の意識は、遠い場所からこの店へと戻ってきた。


 ミツキが静謐な表情でカウンター越しに現れた。手元には何か甘い匂いの料理が盛られたお皿を持っていた。


「さっきはお姉ちゃんに答えられなかった」ミツキは姉を見つめた。「ひとりでやろうとした。私の料理ならできると思った。でも誰にも必ず幸せをあげようなんて無理だった」ミツキの表情は、過去の傷の痛みに一瞬歪んだ。


「ミツキ……」やはりまだ悔やんでいたんだ。店長が言葉をかけようとする。


 ミツキはかぶりを振って、姉にさせなかった。「わかってる。私だって、もう昔みたいに、そんな傲慢じゃない。与えるのはきっかけでいいの。変われるかどうかは、結局その人のこころ次第だもの。でも私の料理、その為にあってもいいよね」ミツキは火膨ひぶくれの跡の残った、自分の指を見つめていた。


「ひとりでは無理とわかった。だから妖精たちの力を借ります。このお店で働いて、私にしかつくれない料理を出します」ミツキの決意は強い眼力めぢからとなり、姉に向けられた。「お姉ちゃんがシシリーのみんなと、人と花を幸せで繋ぐように。いいよね。許してくれるよね」


 厨房の方から鮮やかな光と、ケラケラという笑い声、そしてピチピチという小さな手が打ち鳴らす拍手の音が、姉の耳に聞こえた気がした。


 店長は優しく、そして母親のように穏やかに微笑んで頷いた。




「お客様」ミツキが声を張って男に呼びかけた。


 男はビクッとして目を覚ます。すぐに目の前に、甘い匂いのする鮮やかなピンクのソースのかかった皿が置かれた。


「たらことバターの和風クリームパスタです。お客様が私に任せてくださったので、具は私の好きな和の素材にしてみました。どうかお召し上がり下さい」


 男は今度も躊躇していた。ただそれは戸惑いの為で、先程のような懐疑の心はなかった。「この香りは……」男は意志よりも匂いに促されるまま、蔦の絡まった装飾のフォークを手に取り、目の前の料理を口に運んだ。


 男の手が止まり、目の色が変わった。ぽろりと一言。


「う、美味い……しかも僕はこれを食べたことがある!」彼は無精髭に包まれた顔を上げ、ミツキを凝視した。「これは! もしかして……」


「ソースのベースにあるのは、発酵バターの『エシレ』です」


「エシレ……」


「はい、ヨーロッパではメジャーな味です。海外に長く留学されていた奥様はご存知なんですね。旦那様も手料理で味わった経験があるのではないでしょうか?」


「な、なぜ、君がそれを……」


「ふふ、それは秘密にさせて下さい」ミツキは少し照れた表情になった。「奥様はエシレバターに有塩のものを使われていました。けれど、たらこは塩辛いので今回は無塩です」


「ああ、これだ……彼女が作ってくれた。芳醇な香り! 口に入れただけで……コクが口に充満して、牛乳そのものを味わっているみたいだ! そしてこの明太子との相性がたまらなくいい!」


「油っこさが少なく、それでいてコクが強いのがエシレバターの特徴です。バターはビタミンを多く摂れますし、健康食なんです。奥様はあなたの体にとても気を使っていらしたんですね」


「……」中年の男は黙ってしまった。フォークに添えていた手を膝にのせ、顔を伏せて、そのまま何分も動かなかった。「僕は……もう死のうと思っていた。そうすればこの思い出を汚さずに、苦しみだけを捨てられると思っていた。けれど、それは違った」


 頭上で止まっていた丸い光球に動きがあった。それらはだんだんと、漆黒の球の近くに集まってくる。球たちは闇の球から少しの距離をあけ、ぐるぐると円を描いて回り出した。


 やがてひとつの光球がから飛び出てきた。そして細菌に襲いかかる抗体のように、黒い球に衝突した。


 じわじわと、ゆっくりと、球同士が近づき、融合していく。その結果、黒い球が消えたわけでもないし、白球も半分ほどが残っている。ただ球の黒い色がわずかに煤けた灰色となり、逆に白球は灰色へと変化していた。


「僕が死んだら、苦しみと共にこの記憶も消えてしまうんだ……彼女への想いと一緒に」


 続けて他の光珠が次々と黒い球に喰らい付いていった。そこに分子モデルのような塊の像ができあがっていく。塊の奥に透けて見える闇球の色は、見る間に薄い白に変わっていった。ただそこに映っている妻の最後の光景は、まだ消えずに残っていた。


「この味は、彼女が生きろと僕に言っているみたいだった……そう、理解したよ。僕は彼女の思い出……悲しいけれど、最後に抱いた体温も忘れずに、持って生きなければいけないんだ」


 彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。そしてミツキを見つめた。「ありがとう、君の料理はすべてが美味しかった」


「へへ、そう面と向かって言われると、照れます……あの大げさでも何でもなく、生きてください。そしてまた『アールヴ』に食べに来てください」


 男はその後、何度も頭を下げた。そして、来た時とは比べ物にならないくらい生に満ちた様子で、店の扉を開き出ていった。


 お客が帰ったあと、シシリーの店長と雇われ料理人は、自然と見つめ合っていた。


「よくやったわね。ひとりなのに、すごいわ」


「ううん、ひとりじゃない。そこまで自惚れていないつもり」ミツキはテーブルの上で湯気を立てるカップを見つめた。「お姉ちゃんが、そのお湯で入れてくれたの、私の紅茶じゃない。鎮静効果のあるハーブティーでしょう? その香りのおかげよ」


 ミツキたちの背後から複数の小さな金切り声と、ブーイングが鳴り響いた。姉妹は思わず顔を見合わせて、笑った。


 ミツキは振り向いて口に手をあて、その子・・・たちにも聞こえるように言った。


「あなたたちのおかげも、ね」



 ――――――――――――



 そんな二人の様子を、猫の頭の上で眺めていたメアリーが、溜め息を漏らした。


「ねえ猫さん。あの二人気づいていないみたいだけれど、さっきのお客さんから、お金もらって無いよね? 知ってる? プロってお金をもらうってコトなのよ? あーあ、私の勤め先って、いつもこう!」




(アールヴの料理人   おわり)

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