5-9 『龍殺し』の決断
胸から青緑色の液体を流し斃れる異形、老人の似姿には元より興味はない。そして、それを見下ろした異形の少女よりも、今の俺には右腕を失った少女の姿が最優先だった。
「ちょっと……まずったかな。あれで殺しきれると……思ってたんだけど」
腕の断面から流れる紅と対照的に、青褪めた顔色で少女は苦笑を零す。
事の顛末は、それを完全に視認する事のできなかった俺には推測するしかない。
だが、胸に穴を穿たれ斃れた異形の老人、ライカンロープとその隣のエス、そして切り離されたハルの腕の先、そこに握られた黒い遺物を見れば大体の経緯に察しは付いた。
つい先程は俺に突き付けられていたその黒い遺物は、高速の弾丸を射出するものだ。ハルはライカンロープへと遺物による攻撃を仕掛け、その代償として反撃の風刃に右腕を落とされたのだ。
「どうして、手を出した?」
「だから、殺せるつもり……だったんだって」
「だとしても、お前がライカンロープを殺す必要はないはずだ」
ライカンロープが異形の身体である事は、ハルも今まで知らなかったのだろう。高速の弾丸の貫通は、たしかにヒトであれば十分に致命傷になりうる。もっとも、実際には異形の老人は胸を貫かれたままで反撃を返し、直後その異形故にエスに葬られていた。
だが、可不可以前にハルには理由がない。ライカンロープ側の人間であるハルが、なぜライカンロープを殺す必要があったというのか。
「……私、こいつ嫌いだったんだよね」
子供染みたそれは、単なる誤魔化しの言葉にしては真に迫っていた。
「こいつにとって……私達は道具でしかなかった。人口管理局から掠め取ってきた使い捨ての道具、いくらでも換えの効く駒。……まぁ、今になるまで不満はなかった、というかそれが当然だと思ってたんだけどね」
血を流しすぎたか、白くなった顔が薄い笑みを作る。
「まぁ、実際、こいつ自身も道具みたいなもん……だったわけで、むしろ納得したくらいでもっ……ゲホッ」
「わかった、いいから早く治癒魔術を!」
腕からの出血に加え、ハルの吐血が身体を紅に染めていく。俺の撒いた有毒魔術がハルの体内を蝕んでいるのだろうが、最悪だ。
そもそも、ハルの語った動機には一切の説得力がない。
ライカンロープを嫌っていたのが本当だとしても、今が反旗を翻す好機であったとは到底思えない。俺は大した戦力にならないし、それ以前にハルは俺へ逃走を指示していた。
だから、きっとハルは俺を助けようとしてくれただけなのではないか。その理由を掘り下げる材料はないものの、状況からしてそうとしか考えられない。
「……逃げるぞ、エス」
そして、俺はハルにそれを問う事すらできない。
俺はすでに、何よりもエスを選んだ。そして、エスも俺を選んだ。
ハルの遺物による一撃に耐えたライカンロープを葬ったのは、その背後から接近していたエスだ。異形を葬り去るエスの力は、魔術師として生きたライカンロープに対しても例外ではなかった。
おそらく、エスはいつでもライカンロープを殺せたはずだ。それでも一度はライカンロープへと付きかけ、だが結局は殺した。自惚れのようだが、その理由はハルの場合以上に俺を助けるため以外には思い当たらない。ハルとエス、両者を天秤にかけてしまえば、俺はエスを取らざるを得なかった。
加えて、一連の物音を聞きつけてか、周囲からの足音がこちらへ集まり始めていた。ライカンロープの死体が異形のそれである事もあり、一から全て説明すれば事態を理解してもらえるかもしれないが、そうなった場合にエスの身柄が保証されるとは限らない。
だとすれば、逃げるしかないだろう。そして、その際にハルは置いていくべきだ。今ならまだ、学舎の魔術師と設備があれば治癒魔術で腕を縫合する事も可能かもしれない。その後の待遇は必ずしも望ましいものではないかもしれないが、俺が彼女を連れて逃げたところでそれは同じだ。
「どこに逃げるの? あなたの家?」
「そうだな、とりあえずはそうしようか」
俺の住居は当然ながら統一政府に知られているだろうが、この混乱の中で俺の家に見張りを付けている可能性は低い。どこに逃げるにしても、最低限の荷物くらいは持ち出しておきたい。
「その後は?」
「その後、か。少なくとも、俺への出頭命令が取り消されるまでは、別の区域に移って名前を隠して生活する事になるだろうな」
すでに学舎内の『殻の異形』は多くが撃退されたらしく、騒ぎは大分沈静化して来てはいるが、全てが片付いた後にこの件がどう処理されるのかは現時点では予想が付かない。
事の全貌を知っていたライカンロープは死に、エスの正体に見当を付けていたヒースもアトラスにより殺された。ハルが正直に証人になるとも思えない上、俺もこの場を去る。他に事態を把握していた何者かが説明を付けるのか、『殻の異形』の襲撃は偶発的な災害と片付けられるのか。願わくば後者、その上で俺への出頭命令が取り下げられれば、俺もそしてエスもこの街でこれまで通り暮らす事はできる。もっとも、実際にそうなると楽観して学舎下に残るのは愚策だろう。
「そう」
「とにかく、今はここを出るのが先だ。できれば、俺を担いで壁の穴から出てくれ」
エスは『柱の少女』と呼ばれる異形の一種であるものの、対人戦闘力はおそらくそれほど高くはない。仮に異形の疑似魔術を使えたとしても、それを衆目に晒せばエスが異形である事に気付かれる危険性もある。戦闘は避け、一刻も早く避難するのが最善手だ。
「……エス?」
だが、近付いてくる足音にもエスは一向に動こうとしない。ライカンロープとの接触の際にどこか損傷を受けたのか、それとも何か考えがあっての事か。無表情の横顔からは、感情も思考も何一つ読み取れない。
「――これは!? 龍、玄武……それに、ライカンロープ卿、の、死体?」
そうしている間に向かいの角、俺達からごく近い場所から学舎の魔術師が現れた。
もはや時間の猶予はない、男の視線がこちらを向いた時点で、彼は俺達に気付く。エスが動けないなら、俺がエスを引きずってでも外に逃げ出すしかない。
重い身体に力を入れて、エスへと手を伸ばす。
「え……っ?」
瞬間、膝が落ちた。
続いて背中、そして首元への衝撃が身体の力を完全に奪い去る。
首を動かす事もできなくなった有様では、事態を把握する事は不可能だ。それでも、限りなく確信に近い推測はある。
死角からの三発、叩きつけるようなそれが可能であったのは一人しかいない。俺の動きを奪ったのは、他でもないエス自身だった。
「さよなら」
白い脚が跳ね、視界から消える。瞬く間に遠ざかっていく足音と共に、俺の意識もまた疑念の中で深く沈んでいった。
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