2-5 『龍殺し』 アトラス
龍殺し、稀代の魔術師、あるいは単純に天才。アトラスを称える言葉は魔術学舎で腐るほど聞いてきたが、実物を目にするのはこれが初めてだった。
上空に何の支えもなく立つ少年の外見的な特徴は、その位置以外に特別なものはない。利発で優秀な少年、と言われればそう見えもするが、それはおそらく先入観によるもの、前情報なしに容姿だけを見れば同じ印象を抱くかどうかは定かではない。
「……いきなり物騒ですね。龍殺しから人殺しに改名したらどうです?」
空へ向けて、響く不機嫌な声色は地上から。
盾を貫かれはしたもののどうやら直撃は免れたらしく、クロナは大した傷を負った様子もなく頭上のアトラスを見上げていた。
「そんなものはありふれているだろう。殺す側も、殺される側もね」
対するアトラスは会話の最中、同時に声で詠唱を紡ぐ。多重詠唱の使い手が同時に二人この場に揃うなど、ふざけた偶然もあったものだ。
詠唱により発生した魔術現象は、先程と同じく結晶の刃。無数の刃はクロナの紡いだ雷と炎、二重の魔術と激突し、しかし勢いを緩める事なくクロナの身体へと向かっていく。
「っ……、пушти」
刃の雨をその身に受けながら、クロナの身体に開いた傷口は瞬く間に塞がっていく。一見完璧に見える治癒の魔術は、口元から溢れる紅がそれを否定していた。そもそも、本来魔術的な治癒は、専用の紋様と長節詠唱を必要とする繊細な作業だ。戦闘中の単節詠唱で表面を治すだけでも、十分に常軌を逸している。
「――――――――」
対して、アトラスへと一直線に向かっていった雷炎は、その手前で横へと広がりアトラスの身体へは届かない。
「……なんだ、あれ」
クロナの魔術的技量も超人的ではあるが、それ以上にアトラスの扱う魔術は、一言で言えば異様に過ぎた。
多重詠唱である事を差し置いても、その中の音に一切の聞き覚えのない詠唱。そして実際に発生した魔術現象もまた、少なくとも俺の知識にはない奇妙なものだ。無数の結晶の射出と雷炎を遠ざける不可視の力、そのどちらも強力にして類似の魔術すら思いつかない。
「逃げた方がいい」
驚嘆、あるいは萎縮していた俺に行動を示したのは、隣からの冷たい声だった。
「あれは、私達を狙ってはいない。少なくとも、今は」
エスの提案したのは、この場からの逃亡。
たしかに、アトラスの初撃こそ俺とエスを被害範囲に含んでいたものの、今の彼は完全に矛先をクロナに集中させている。優先順位としてクロナが上なのか、あるいは俺達はただクロナの近くにいたから巻き込まれただけなのかはわからないが、この場を離れれば少なくとも今この時に巻き添えを喰らう事はないだろう。
「クロナを見捨てて逃げろって?」
「命賭けで彼女を助けたいなら止めないけど」
「……まぁ、そうだな」
勢いで熱血漢染みた事を口走ってはみたが、実際、俺とクロナの間にそれほど大した関係はない。先程の話の続きは気にはなるが、それだけでは命を賭けるには足りない。
「じゃあ、逃げ……っ」
臆病な決断は、しかし少しばかり遅かった。
「ライカンロープの落とし子も、結局この程度か。まぁ、仕方ないけど」
あるいは、決着が早すぎたと言い訳をすべきだろうか。
アトラスの紡いだ詠唱、それにより生み出された結晶の刃がクロナの全身のいたる部位を貫いていない事を、俺の目はたしかに捉えていた。だというのに、アトラスはすでに悠々と地上に降り、その背後には胸部に拳大の穴の開いた女の躯が横たわっていた。
多重詠唱の使い手であり、『神の器』を名乗り俺を殺しかけた女。クロナは多くの謎を残したまま、あまりに呆気無く死を迎えていた。
「さて、残りは――ん?」
緩慢な素振りでこちらに視線を向け、そこでアトラスがしばし固まる。
「なるほど、噂の龍殺しか。そうなると、少し面倒かもしれないな」
面倒、で片付けられるのは心外だが、実際にアトラスにはそれだけの力がある。対人戦闘にはそれなりに自信があったが、実際にアトラスの戦闘を目にした今となっては、勝機は薄いと判断せざるを得ない。
「エス、やれるか?」
「あれが相手では、私はほとんど役に立たないと思う」
「わかった。じゃあ、俺を置いて逃げてくれ」
「……いいの?」
「むしろ、その方が助かる」
エスがアトラスを倒せるならば話は簡単だったが、逃走を提案された時から答えは予想していた。あるいは、その気がないだけなのかもしれないが、どちらにしてもエスにはこの場から離れてもらった方が都合がいい。
「ああ、そう警戒しないでほしいな。一応、同じ龍殺しの仲間だろう?」
「そんな分類に意味があるか? それを言うなら、あれだって同じ人類の仲間だろ」
地面に倒れ伏せるクロナだったものを目で示し、顔筋でなんとか嘲笑を形作る。たった今作られた死体に動揺こそあるが、それを悟られるわけにはいかない。
「たしかに。そういう観点はなかった」
俺の言葉に興味深そうに頷いたアトラスには、少なくとも今すぐに俺に手を掛けようとする様子は見て取れない。それが本気か油断を誘う演技かはわからないが、どちらにしても俺にとっては時間を使ってくれる分には都合がいい。
「まぁ、とりあえずここは立ち去るとしようかな。あまり居座るのも良くないだろうし」
「なっ……」
だが、警戒する俺を余所に、アトラスはこの場を去る宣言をしていた。
「また会おう、龍殺しの君。願わくば、敵としてではなくね」
短い別れの言葉と、その裏で並列していた詠唱。俺の警戒を余所に、それらの終わりと同時にアトラスはこの場から完全に姿を消し去っていた。
「――шаффо」
念のため、少しの間だけ周囲を見回し、アトラスが周囲に潜んで奇襲を狙っていない事を確認した後、指輪の魔術展開を詠唱で中和する。
「やっぱり、死んでるな」
念のために、と近くに寄って確認するも、心臓部を丸々穿たれたクロナには生存への一縷の望みもなかった。表情は驚愕ですらない警戒の段階で固まっており、彼女は不意の一撃を認識すら出来ずに息絶えたのだろう。
人が死ぬのを間近で見るのは、これが初めてだ。それでも、不思議と動揺と呼べるほどの感慨はない。一度は自分も死にかけたからか、こうして亡骸を見下ろしたところで、感じるのは生理的な嫌悪感と漠然とした恐怖だけだった。
「……悪かったな」
だから、去り際に口をついた謝罪の意味は、自分でも良くわからなかった。
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