二章 狂信者
2-1 『龍殺し』エス
そもそも、俺には龍を殺す理由などなかった。
だが、その逆は違ったのだろう。『殻の異形』はかつて人間世界を滅ぼし、今も辛うじて残ったヒトの残滓を滅ぼさんとし続ける生粋のヒト種の敵だ。つまりあの日、旧廃墟群の片隅で龍に襲われた俺は、本来ならば死んでいたはずだった。
「本当にこれで良かったのか?」
問いかける先は、文字通りの命の恩人である白髪の少女。
「少なくとも、今はこれが私にとっての最善だから」
あの時、俺は一切の疑念を差し挟む余地もなく、直接的に少女に命を救われた。
俺を喰らわんとしていた龍を殺した少女は、だがあの時も今もその見返りをほとんど求めてはいないように見える。俺の方から何か礼をと申し出てようやく口にした望みですら共同生活、つまりは住居の提供という事だが、俺の方からしてみればそんなものは軽すぎて対価にもならない。
「あなたこそ、これで良かったの?」
「良かった、って何がだ?」
返された問いの意味がわからず、首を傾げる。
ほとんど互いの情報のない少女との同居にはたしかに戸惑いこそあるが、命を救われた相手への警戒などはなく、更にそれが美少女となればむしろ喜んでもいいくらいだ。裏を勘ぐらないほどに純粋なわけでもないが、命の恩人からの頼みという条件も上乗せされれば拒む余地はない。
「龍殺しになって良かったのか、って事」
「ん、ああ、そっちか」
そして、エスの言葉については考えるまでもない。
「もちろん万々歳だ。むしろ、俺が聞いたのもそれなんだけどな」
「私?」
命の問題は置いておいて、俺達の間でその次に重要な問題は、結果的に俺が受け取る事になった龍殺しの功績、及びその肩書についてだ。
俺を救うため龍を殺したエスは、なぜかその功績を他でもない俺に譲り渡した。もちろん俺の方からそんな厚かましい事を乞うたわけではなく、同居の件と同じように俺を救った対価として、『俺が龍殺しを名乗る事』をエス自身が求めたのだ。
だが、俺に言わせれば、龍殺しの肩書なんてものは魔術師にとって利でしかない。称賛と羨望の対象、この上ない社会的地位である事はもちろん、即物的な意味でも多額の褒賞金に名誉一等相当の資格と、それだけで懐は格段に潤う。
「私は魔術師じゃないから」
申し訳程度の釈明としてのエスの呟きも、輪をかけて意味がわからない。魔術師でもない人間に龍を殺せるわけなどないのだが、彼女は最初に出会ったときからなぜだか自身を魔術師と呼ばれる事を一貫して拒み続けていた。
「……なんでもいいけど、準備はいいか?」
「準備?」
「そうだな、要らないか」
エスは、小細工すら必要としない本物の龍殺しだ。俺とて、それには及ばないまでもこと対人に限ればある程度の自信はある。
「一応、忠告だけはしておく。気付いてるぞ」
「……流石です」
俺の声に応え、右手にある細い木の影から現れたのは、質素な服を身に纏った女だった。
「後を付けるような真似をして申し訳ありません。しかし、これは聞き苦しい弁解になりますが、機を選ばなければ話を聞いてはもらえないと思いまして」
「話?」
予想外の反応に、思わず首を傾げる。
「ええ、私達『神の器』に関する話です」
胸元から取り出した首飾りは、見覚えのある二枚の翼。
これと似たやり取りを、俺はつい先日に行ったばかりだ。あの時、自身をクロナと名乗った『神の器』の女は俺に話があると切り出し、その要求が通らないとなると武力行使に打って出た。
「今更になって、話し合いも何もないだろうに」
一度は決裂した交渉をもう一度、というのはあまりに甘い考えだ。それも、自分達の方から手を出しておいて話し合いが成立すると思っているなら虫が良すぎるにも程がある。
「今更? ……待ってください、あなたは何か――」
あるいは、『神の器』の統率が甘く、この女はクロナが俺に接触した事実を知らないのかもしれないが、いずれにしても、こちらは相手の出方を知っている。
「行くぞ、エス!」
「行くって?」
「走るんだよ!」
指輪の突風魔術を牽制に、エスを先導するように走り出す。
今のところ相手は一人とは言え、『神の器』の信徒が多いこの地域ではいつ加勢が来るとも限らず危険だ。時間の掛かる可能性がある戦闘よりも、逃走を選ぶのが正しい。仮に女にエスの会話を聞かれ、俺達の関係性を知られていれば対処も必要だっただろうが、先程の様子ではその心配もないだろう。
「どうして逃げるの?」
「殺す方が得意か?」
どこか間の抜けたエスの問いには、代案で返す。
「いえ、私に人は殺せない」
「それなら、逃げる方が楽だ」
「……なるほどね」
ごく当然の事しか言っていないはずだが、エスは深く納得したように頷いた。
それより個人的には、彼女の『人を殺せない』という発言の方が意外だった。可不可で言えば龍を殺せて人を殺せないわけはないから、精神的な理由という事なのだろうか。
「そろそろ、撒いたか」
背後に人の気配がない事を確認し、走らせ続けていた足を止める。もう学舎下の街までは目と鼻の先、ここまで来れば無理に走るよりも体力を温存しておいた方が安全だ。
「あれは……?」
エスも俺と同様に速度を落とし、だがそれどころか完全に足を止めてしまう。
「エス?」
何かあったかと慌ててエスを見ると、その視線はただ上へと向けられていた。
「……学舎の白塔を知らないのか?」
「ええ、知らない」
エスの視線の先、空にそびえるのは白い塔。統一魔術学舎の象徴であり、監視塔の役割を持つそれは、この学舎だけでなく世界中の魔術学舎に共通して存在する造形だ。
つまるところ、エスはここだけでなく統一魔術学舎の建物を見る事自体が初めてだという事になる。そして、公式に魔術を学べる機関は世界で統一魔術学舎だけだ。民間や反体制派の間にまったく魔術が伝わっていないわけではないものの、学舎に一切関与せず龍を殺すほどの力を手に入れる手段があるとは思えない。
「お前は……いや、行こう」
エスについて、俺が知る事はあまりに少ない。だが、この口数の少ない少女が自分の事を語りたがるまで、あえてそれを問うべきではないように思えた。
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