第31話 「荳?莠泌屁荳我ク我ク我ク?荳?荳我コ泌?荳??荳我コ御コ」

 どう走ったのかは分からないけど、あたしたちは導かれるよう一つの部屋に辿り着いていた。


 キースが、警告するように銃を構えている。片腕が戻ってきていないから、狙いを定めるのが難しそうだ。

 対峙するマノンはどこで手に入れたのか、抜身の剣をぶら下げている。……不思議な形状だけど、どこかで見たことがあるような……?


「諦めなよ。この空間は、ぼくと相性がいいんだ」


 マノンの喉を借り、別人の……それでも、聞き覚えのある声が語る。


「君は……誰だ」

「名前ってさぁ、大事なんだよ? 簡単に教えると思う?」


 キースの問いに、マノンに取り憑いた何かは語る。

 マノンの左手に握られた剣が、ドス黒いオーラをまとっているようにも見えた。


「なら、答える必要は無い。とにかく彼女を離せ」

「誤解してるみたいだけど、マノンは元から味方だよ。だから、ぼくもここに入り込めたんだしぃ?」

「……そうか。……昔の僕に、似た目をしていたしね」


 キースは悲しげに目を伏せ、銃を下ろす。

 マノンの中に入り込んだ「誰か」は、嬉々として語り続ける。


「ぼくは赦さない。おまえ達の甘っちょろい考えも、全部、全部馬鹿げてる。クズはみんな死んじゃえばいい。悪人は全部殺しちゃえばいい!!」


 黒く染まったマノンの目から、真っ黒な液体が滴り落ちる。


「……マノンはね……ぼくのために泣いてくれたんだぁ。そんなの酷いって……辛かったねって、赤の他人のぼくに、言ってくれた……味方もしてくれるって……一緒に、戦ってくれるって……!」


 剣にまとわりつくドス黒いもやが、マノンの腕から全身を覆っていく。

 激しい怒りと憎しみが渦巻き、空間そのものを闇へと書き換えていく。

 ヴァンサンが胸を押さえ、膝をついた。「大丈夫!?」と声をかけたけど、ガタガタと震えたまま一言も発さない。


「赦さない、赦さない、赦さない……!! ぼくらを虐げた世界、無惨に殺した世界、それでも平気で回ってる世界……!! そんなのを守ろうとするヤツらも、絶対に赦さない!!!!」


「少女」のわらい声に呼応するよう闇が押し寄せ、足元に迫る。レニーが「いいか、離れんなよ」と言っているのが聞こえ、少しでも彼の近くへと身を寄せた。

 負の感情に押し潰されそうで、息が苦しい。いったい、どれほどの憎しみが、ここに集まっているの……?


「君の言い分はわかった」


 キースは溢れ出る怨念におくすることなく、その場に佇んでいる。


「その感情は理解できる。だけど、君の手段は正しくない」


 そして、キースはきっぱりと言い放った。

 うなり声のような、低い音が響く。マノンの周囲から、次々と小さな影の群れが現れる。


「ほたえなぁぁあッ!!」


 吼えるような叫びと同時に、マノンの姿が掻き消える。

 数歩先の視界が真っ暗闇に覆われて、何が何やら分からない。


「相棒! オリーヴ達のことは頼んだぜ!」


 レニーの声に、レオナルドが「おう!」と返す。訳が分からないまま、ヴァンサンと共に担ぎあげられた。……待って、力すごっ!?


 ──どうか、ご無事で


 再び、意識に直接語りかけられる。

 そのまま空間が白ずみ、弾け飛んだ。




 ***




 気が付けば、ヴァンサン、レオナルドと共に、暗闇の中にいた。

 レオナルドは周囲をキョロキョロと見回し、ヴァンサンはカタカタと小刻みに震え、頭を抱えてうずくまっている。


「あー、これアレか。『当てられた』ってやつか」


 レオナルドは呑気に言うけど……それ、大丈夫なの……?


「う……ぁ、オエッ、げほっ……ゴホッ」

「わ、わわっ! 大丈夫!?」


 ヴァンサンが嘔吐おうとし始めたから、慌てて背中をさすった。

 血の混じった吐瀉物としゃぶつが、真っ黒な地面に散る。

 ……そういえば、自殺を図ってたんだっけ。傷口は見えないけど……どれぐらい深いんだろう。手遅れじゃないとは聞いたけど、心配になる。


「あんまり無理させない方がいいのかな……現実世界に帰れても、死んじゃったら意味ないし」

「……いえ……私は、それでも……構いません」


 ずれたサングラスの隙間から、虚ろな瞳が覗いている。

 はぁ、はぁ、と、荒い息を整えることもできず、ヴァンサンはまた、少量の血を吐いた。


「生は……苦痛です、から……」

「ヴァンサン……」


 ダメだよ、と、否定することなんてできなかった。

 私が辿ってきた生とは比べ物にならないほどの痛みを、彼は受けてきたんだから。


「わかって……わかって、いるのです……生きるべきは、あねの方でした……」


 つぅ、と、透明な涙が頬を伝う。


「おそらくは……衝動でした……殺したくて、消したくて、憎くて仕方がなくて……私は……」


 ぎゅ、と胸を押さえ、ヴァンサンは言葉を絞り出す。

 何を言うべきか、私には分からない。ただ、背中をさすることしかできなかった。

 レオナルドがスタスタと歩み寄り、吐瀉物とヴァンサンを見比べる。


「おし、服脱げ」

「は?」

「ケガしてんだろ? 見てやんよ」

「えっ、そんな乱暴な……!」


 私が止める間もなく、レオナルドはヴァンサンの服を器用に脱がせる。ヴァンサンも抵抗する気力すらないのか、されるがままだ。


「……ッ」


 服を剥ぎ取られたヴァンサンの身体は、かつて見たポールの裸と同じように、火傷や痣、傷痕に覆われていた。

 ただ、決定的に違う部分がある。傷を隠すよう、翼をモチーフにしたタトゥーが彫られていることだ。

 タトゥーで作られた翼と羽根は、ヴァンサンの胸元や腕、背中を包むように広がっている。


「身投げだっけか? このアザとか新しい感じすんな」

「……落ちた……記憶は、あります……」

「骨も折れてねーし。死ぬような傷じゃなくね? 帰ってから歩いて医者行けんだろ」


 レオナルドがサラッと言うけど、レオナルドは頑丈すぎるし、自分基準で言ってたりしない……?


「頭やお腹を打ってるかもだし、素人判断は良くないよ……」


 レオナルドをたしなめつつ、脱がされたシャツをヴァンサンに差し出す。ヴァンサンはぎこちない動きで手を伸ばし、モゾモゾと着込み始めた。

 ふと、胸元の傷痕が目に入る。タトゥーの方が目立っていたけど、こんなに大きな傷、ポールにはなかった気がする。

 去勢の件と言い……ヴァンサンの方が手酷い仕打ちを受けてたのは、間違いないのかな。


 あれ、何か、引っかかる。……なんだろう、この違和感。


 正体を突き止めようと考えていると、自分のものでない「記憶」が再生され始めたことに気付く。

 えっ、何? さっきの違和感って、もしかしてこれ?


「……あー、エリザベスの力じゃね?」


 レオナルドが能天気に語る。

 さっきの部屋……らしき場所が見える。マノンとキースが対峙してる。……と、思ったら、脳内の映像はふつりと途絶えた。


「あ、あれ?」

「お? 失敗した?」


 何か、伝えようとしてくれたのかな?


「……黒幕の……正体を、教えようと……?」


 ヴァンサンが独り言のように呟く。


「マノンに取り憑いてた人?」

「ええ……」


 ヴァンサンは視線を下に落とし、途切れ途切れに語る。


「あれが……その、あにの……別人格ではないかと……」

「……まだそんなこと言ってるの?」


 さすがにイラッとして、強めに言い返してしまう。

 ヴァンサンはビクッと肩を震わせつつ、それでも、言葉を続けた。


「ほ、本当なのです。いえ、信じられないのは……当たり前、ですが……あねが精神科に通院し、治療を行っていたのは、事実でして……」

「……え?」


 治療を行っていた?

 そんなこと、聞いたことないよ?


「人格の解離かいりは……かなり、深刻な状況である、と……担当医師が……」

「……それ、本当なの? また妄想とかじゃない?」

「え、ええと……妄想と、言われましても……私には判別がつかず……申し訳ありません」


 今までの抽象的な証言に比べると、「通院していた」とか「医者から診断を受けていた」というのは、やけに具体的な記憶だ。

 私はポールの別人格に会ったことが無い。……だけど、そういう病は、主人格ですらその存在に気付いていないことも多いと聞く。


 ──ぼくらを虐げた世界、無惨に殺した世界、それでも平気で回ってる世界……!!


 マノンに憑依した「誰か」の言葉は、確かにポールにも当てはまる。口調もちょっとだけ似ていたりするし、黒髪だし……

 信じていた世界が崩れ去るような感覚が、身体の軸を不安定にする。


 ──信じないでくれ

 ──ぼくにも……わからないことだらけなんだ……


 置き去りにされた子供のような、不安そうな表情が脳裏に蘇る。これは……正しい、記憶……なの?

 不安が押し寄せ、目の前が真っ暗になっていく。


 ──ごめんね

 ──ぼくにさえ出会わなければ……ぼくなんかを愛さなければ、きみは、幸せだっただろうに


 違う。そんなことない。

 違うんだよ、ポール。


 ──きみの苦しみは、ぼくのせいだろう?


 愛する人の温もりが、遠ざかっていく。

 待って、どこに行くの。行かないで。

 ……逝かないでよ、ポール……!

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