第13話 Snow White(後)

 ひそやかなノックの前から来訪に気付いていたリュートは、ノックが終わる前にドアを開いて廊下に立つ人物を無言のまま部屋に引き込んだ。


「あ、あの、ごめんねこんな時間に。どうしても、会いたくて……。もうリュートに戻ってたんだ」


 予想していなかっただろう対応の素早さに戸惑ったように、クライスが言い訳をする。


「いつまでも白雪の姫じゃいられないからな。用事が終わったら戻るさ」


 いつも通りの灰色ローブに身を包んだリュートであったが、部屋にいる間はひとに会うこともないので黒縁の眼鏡はかけていない。さらされた秀麗な美貌を、溜息つかんばかりに見上げてくるクライス。

 リュートは苦笑を包み隠してあえての無表情で「それで?」と言った。


「カッコいいところ、見せそびれた件の釈明にでも来たのか?」

「その件は本当にごめんなさいだけど……。リュートこそクロノス王子とどこ行ってたんだよ!?」

「気になるのか」

「当たり前だよ。自分の彼女が、あんな信用ならない男と二人で出て行ったなんて、居ても立ってもいられないよ。どこで何してたの?」


 目が真剣だった。


(彼女、ね……)


 すっかりルーナに独占欲を発揮しているクライスに、リュートは小さくふきだす。


「なんだよ。何笑ってんだよ。何もされなかった? 心配していたんだけど」

「そうだなあ。足を舐められたな」

「はっ!? 足!? なんで!?」


 いちいち大きなリアクションで、詰め寄ってくる。

 その様子を見ながら、リュートは指でこめかみを軽く押してから、手を伸ばしてクライスの手を掴んだ。そのまま、部屋の中へと手を繋いで連れていく。


「リュート、なんでだよ。答えてよ。どうすればそんなシチュエーションになるわけっ……!」


 動揺はもっともだが、思わせぶりに言ったわりには素直に続きを言う気にもなれずにリュートは唇の前に指を一本立てた。


「騒ぐなよ。どこで誰に聞かれているかわからないぞ」


 本当は、部屋の周囲に目くらましや防音効果のある結界を張っているので、破られない限りは外から中の出来事を察知される心配はない。しかし、今はそんなことを明らかにする気にもならない。


「ごめんなさいってことは、あの後、カインに負けたってことでいいんだよな。どうするかな。あいつはルーナのキス、待ってる?」

「その件は大丈夫だよ。僕が代わりにすればいいって言うから、あの場でしてきちゃった。だからもう終わり」

「……ん? お前こそなんだよそれ。あの男にキスしたってことか?」


 真顔になったリュートが低い声で問い返す。

 クライスは、そのリュートの変化に気付いていないようで、一向に頓着した様子もない。


「カインも変な理屈こねてたんだけどさ。ルーナとキスしたことがある僕がキスすれば、実質ルーナのキスと同じだから! って。でもね、アレクス王子がルーナに何するかわからないから、自分に注意を逸らすためって言ってたよ。案の定、王子、超焦ってたし」


 くすくす、と思い出し笑いをするクライスを、リュートは壮絶な沈黙とともに見下ろしていた。

 クライスは気付かない。そのまま、ふと笑いをおさめると、リュートを見上げて言った。


「でも、僕、少し失敗したかも。カインって妙に鋭いところがあるから、僕のキスのこと、『背の高い男に甘え慣れてる』って。慣れてるわけじゃないけど、僕がキスしたことあるのってリュートだけだし。あのときみたいにすればいいのかなって思ったら、そういう感じになっちゃったんだよね。二人とも背の高さが近いから」


 全然。

 まったく。

 リュートの顔が強張って、恐ろしく剣呑な目つきになっていることに気付かずに、クライスはしゃべり続けている。


「そうか」


 全魔族を震えがらせる絶対零度以下の声で返事をしたリュートに、クライスは手を伸ばして顎に触れた。


「あ、リュートの顎きれい。あいつの顎、ざらざらだったよ。髭剃ってないのかと思った」


 ぶちりと。

 もう何本も切れに切れまくっていたリュートの何か、最後の一本がぶち切れた。

 クライスの腕をひき、さらに部屋の奥に進むと、飾り気のない寝台に突き飛ばして有無を言わせずに細い身体の上にのる。


「なに、どうしたのリュート? ちょっと重いよ。急に眠くなったなら、今日は帰るよ!?」

「いちいち馬鹿かお前。帰さねーよ」

「僕、少し抜けてきただけだから。隊舎に戻らないと。……ほら、特に今日はさ、ものすごく冷やかされたから。いなかったらいなかったで、絶対彼女のとこに夜這いにいったとか思われ」


 リュートが噛みつくようにクライスに口づけたせいで、会話が途切れた。


「う……ん、なに、どうし……あっ。リュー……。いや……だめっ」


 息もできないほどに貪られて、クライスはリュートの髪に指をひっかけながら、とぎれとぎれに声をもらして身をよじろうとする。だが完全に体重をのせられていて、まったく動けない。


「リュー……」


 隙をつかれたクライスは、リュートにされるがまま。

 リュートがようやく唇を離したときには、クライスは抵抗する気力もないように瞳を潤ませて頬を赤らめていた。


「どうしたの……」


 荒い息をこぼしながら言ったクライスに、リュートは目を細めて唇をつりあげて笑った。


「お前、何食べたの? ずいぶん甘い唇だな」

「僕? 甘いかな」

「すごく。癖になりそうな味だ」


 リュートが再び顔を近づけたとき、クライスはわずかに顔をそむけたものの、抵抗は意味をなさず。

 はじめよりも時間をかけて、念入りに攻められて、ついには涙をこぼした。


「リュート……、僕負けたのに。こんなキス……」

「そうだな、負けたんだよな。あれだけ啖呵切っておいてカッコ悪ぃよお前。謝りにきたってことは、当然お仕置きされる覚悟はできていたんだよな?」


 涙を口づけと舌で舐めとりながら、リュートは冷たい声で言う。


「ルーナに会いにきたのに」

「さっさと男性型に戻ってるのは予想外だったってことか? 期待に添えず悪かったな」

「そういうんじゃないけど」


 リュートが顔を離して見下ろすと、クライスは頬を染めたまま横を向いて、小さな声で言った。


「なんか嬉しくて」

「何が」

「リュートに戻っていたってことは、一日前からルーナになって準備してたってことでしょ? 偶然噂を聞きつけて来たとかじゃなくて、あらかじめ見に来てくれるつもりだったんだなって。今日来てくれたの、本当に、すごく嬉しかったから」


 頬の赤みが増し、クライスは悩まし気な溜息をもらす。


「僕はカッコ悪かったけど、リュートは最高にカッコよかったよ……。僕の最高の恋人だよ。みんなリュートがカッコよすぎてびっくりしてたよね」


 独り言のように言ってから、ふっとリュートに視線を向けて、淡く微笑んだ。


「でも、もう誰にも見せたくないな。今日だけでかなりファンが増えちゃったはず。リュートは僕だけのものだからね」


 ふう、とリュートは肩をそびやかして、クライスの体の上から起き上がる。

 そのまま寝台に腰を下ろす。クライスもまた、上半身を起こして、投げ出されていたリュートの手に触れた。顔を向けないまま、リュートが手を握り返した。


「リュート……。本当にありがとう」

「いいけど。他の男にキスしておきながら、僕だけのリュートとか、よく言うぜお前」 

「それは、さっきも言ったけど、リュートに、僕以外の人にキスをしてほしくなかったら」


 ぐしゃぐしゃと波打つ銀髪を空いた手でかきあげながら、リュートは呻き声を上げて、言った。


「あのな! 何回も言わないからよく覚えておけよ! 他の奴にキスされて嫌なのはお前だけじゃねーんだよ! あんまり俺を怒らすんじゃねーよ。次は泣いてもやめないで抱き潰すぞお前」

「抱き……」


 息を呑んだクライスの額に額を寄せて乱暴にぶつけて、叩き込むように言う。


「偽装だからって安心してんじゃねーよ。こうやってちょろちょろ夜に部屋に来たら、俺だってその気があるのかないのかくらいは聞くぞ」

「僕、男だけど」


 ハッとリュートが笑い飛ばす。


「それがどうした。俺が女でお前を抱いてやることだってできるんだ」

「そっか……」


(納得してる場合かよ。男相手だろうが、女相手だろうが深い仲になったら困るのはお前だろうが)


 それはあくまで、知らないことになっている。

 リュートは溜息に苦悩を紛らわせて、クライスから顔をそむけながら繋いだ手にきゅっと力を込めた。


「それはそうと、今日は本当に帰さないからな」

「どうして?」

「……お前、隊舎にいるんだろ。あの男の元には帰さない。少なくとも今日は。お前に甘えられて、のぼせあがってるかもしれないからな。くっそ。今度は負けるんじゃねーぞ」


 なんとか納得して、受け入れようと心を砕いて、ようやくそれだけ言ったリュートに対して。

 きょとんとしていたクライスが「ああ!」と声を上げた。


「リュート、もしかして嫉妬してくれていたの!? 嬉しいけど、口にキスしたわけじゃないよ。あいつ背高いし、口はさすがに僕も無理だったから、顎に軽くしただけだよ。え、それでそんなに怒ってくれていたの!? やばい、喜んじゃっていい?」


 どうしてさっきはあれほどわかりやすく怒っていたのに気づかなくて、今なんだよ、と。

 苛立ちを飲み込んだリュートは今一度クライスに顔を近づけた。

 にこりと微笑んだクライスが、受け入れるように目を閉ざす。


 滅茶苦茶にしてやろうという暗い情熱を燃やしていたリュートは、その笑みと、瞳を閉ざした顔のあどけなさに毒気を抜かれて──


 空から降る雪が地に舞い降りたつときのように、ふんわりと溶けるような優しいキスをひとつ、唇に落とした。

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