5-7
阿部を刺した男は黒いパーカー、フードの隙間から見えた顔はまだ若い。二十代から三十代に見えた。
手と服を血に染めて走る真紀を道行く人々は怪訝な顔で振り返る。走りながら上野警部に連絡した。被疑者の特徴を伝え、緊急配備を要請する。
「ダメだ……逃げられた」
息を切らして立ち止まり、真紀は舌打ちした。目の前で上司が刺されたショックと犯人を取り逃がした屈辱で涙が滲む。
(泣くな。現場では泣かないって香道先輩と約束したでしょ!)
現場では泣かない。香道秋彦との約束が警察官としての自制心を取り戻させてくれる。
道を引き返して阿部のもとに急ぐ。通行人に囲まれた輪の中で阿部が苦しげに呼吸していた。
「警視!」
真紀の呼び掛けに阿部が薄く目を開ける。
『奴は……』
「すみません、取り逃がしました。でも緊急配備の要請はかけました。すぐに救急車も来ます」
通行人から借りたマフラーやハンカチで阿部の傷口を押さえた。マフラーもハンカチもみるみる血に染まり、通り沿いの100円ショップやコンビニの店員から売り物のガーゼやタオルを支給してもらった。
真紀は阿部の血が手につくのも構わず止血を続けた。阿部の額に浮かぶ汗をハンカチで拭う。
『民間人への被害は……』
「今のところ報告はありません。警視だけを狙ったのだと思います」
11月の寒空の下、阿部の唇の色が薄くなっていくのは寒さのせいではない。目を閉じて呼吸を荒くする阿部の頬に真紀の涙が落ちた。
「しっかりしてください……! 二人目のお子さん産まれるんでしょ? 二人の子どものお父さんなんですよ? 警視がいなくなったら子どもと奥さんはどうすればいいんですかっ!」
『勝手に殺すな……』
胸を上下させる阿部が弱々しく笑う。阿部は震える手で傷口を押さえる真紀の手に触れた。
『……笹本……警視総監には……気を付けろ……』
阿部から語られた警視庁トップの名前。
『奴は……笹本は……』
握られた阿部の手は力が抜けて地面に静かに落ちる。救急車のサイレンの音が近付いてきた。
場所は都心の交差点、時刻は午後9時。真紀の叫び声とサイレンの音が雑踏を掻き消して響いた。
*
阿部は都内の病院に搬送され、付き添いの真紀は項垂れて廊下に座り込んでいた。上野を先頭にして早河と矢野が廊下を歩いてくる。
『真紀』
矢野が彼女の名前を呼ぶ。三人の顔を順に見た真紀は目を伏せた。
「警部、申し訳ありません。目の前で阿部警視が刺されたのに、私は被疑者を確保できませんでした」
『お前の責任じゃない。それにお前から連絡を受けてすぐに現場周辺に緊急配備を敷くことができた』
上野は真紀の隣に座り、手術室の扉を見つめた。
『二十代から三十代の男で、不審な動きをしている人物を見掛けたら片っ端から職質をかけた。この寒さで上着も羽織っていない男が見つかり、任同で調べて、そいつが阿部警視を刺したと吐いたよ。凶器とパーカーは男の供述通り公園のゴミ箱から見つかった』
「誰の命令でやったと言っていますか?」
『それについては黙秘してる。が、カオスの手の者か……警察内部か』
上野が早河と矢野と目を合わせる。三人は険しい顔つきだった。
『今日はもう帰れ』
「でも警視が……」
『何かあればすぐに知らせる。とにかく帰って休め。矢野、小山を頼む』
真紀の服には阿部の血が付着していて惨劇の余韻を残している。矢野が自分のコートで真紀の身体を包み、彼女を支えて立ち上がらせた。
「阿部警視が言っていました。笹本警視総監に気を付けろと……」
真紀は上野と早河に阿部の言葉を伝える。二人はまた互いに目を合わせた。
「警視を狙うよう命令を出したのはもしかして……」
『今はそれ以上は言うな。お前の言いたいことはわかってる』
上野に制されて真紀は口を閉じた。彼女は矢野に支えられて廊下を進む。
「いつものラーメン……警視と一緒に食べたの。色んな話して……奥さんの話も聞いたりした」
『そっか』
「やっと少しだけ警視と打ち解けられたのに……」
エレベーターホールで下りのエレベーターを待っていると、片側のエレベーターが開いて腹部の大きな女性が降りてきた。
妊婦の女性は服に血をつけた真紀の姿を見てすべてを察したのか、真紀と矢野に頭を下げて手術室に続く廊下を歩いていく。
阿部
「あの人……たぶん阿部警視の奥さん……」
『だろうな。俺達には阿部警視の無事を祈ることしかできない』
矢野は真紀の肩を優しく抱いた。
きっと阿部もプライベートではこんな風に妻の肩を優しく抱いているのだ。
そう思うとまた込み上げる涙が真紀の頬を濡らした。
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