4-10
ケルベロスこと、原昌也は肩を震わせて笑った。
『その様子じゃ、俺がケルベロスだと勘づいていたな? 最近チョロチョロと俺の周りをうろつくネズミが鬱陶しかったんだ。たとえばそこにいる情報屋さんとかね』
メリーゴーランドを囲む鉄柵を挟んだこちらとあちらで銃口が向き合う。
『早河。命が惜しければ銃を下ろせ』
早河は微動だにしない。原はまた口笛を吹いた。
『あー、なるほど。わかった。お前にとって苦痛なのはこっちか』
彼はなぎさを引きずって立ち上がらせ、早河に見せつけるように無理やりキスをした。なぎさは必死で抵抗するが、後頭部を強く押さえつけられて身動きできない。
愛する女と最低な男との最悪なキスを見せつけられて銃を構える早河の腕が怒りで揺らぐ。
なぎさはせめてもの抵抗に原の唇を力を込めて噛んだ。舌打ちした原が唇を離す。
『痛ぇな。気の強い女だ』
なぎさに噛まれた唇から滲んだ血を手の甲で拭い、彼女の髪を乱暴に掴んだ。早河は苦悶の表情でまだ銃を構えている。
『おい早河。銃を下ろさないとお前の大事な女をもっとめちゃくちゃにするぞ。この女を今すぐ殺してやろうか?』
ここで銃を下ろせば原がこちらに引き金を引くだろう。銃を撃てば刑事ではない早河は犯罪者として逮捕される、銃を下ろさなければなぎさが危ない。
『そんなに自分よりこの女が大事か』
銃を下ろした早河めがけて、原が引き金を引いた。早河は素早く受け身をとって弾を避ける。
『良くできました。次は確実に頭を狙うぜ? 俺の正体を知られたとなれば、ここにいる全員生かしておくわけにはいかねぇ』
『原さん、あんた刑事だろ。刑事のあんたがどうしてカオスに……』
『はっ。いいか、早河。人間ってのはな、三種類に分けられるんだ。殺さない人間、殺す人間、殺される人間。お前は人を殺したいと思ったことはあるか?』
太陽が沈み、闇が訪れた。廃園の遊園地に電灯は灯らない。闇に映し出されるかつての同僚刑事は早河の知る原昌也とはもはや別人だった。
『あんたがなぎさを襲った時に本気で殺してやろうかと思った』
『そりゃそうだろうな。俺を調べていたなら俺の親のことも知ってるんだろ?』
『あんたが10歳の時、あんたの母親は浮気相手の男に殺された。あんたは母親が殺される瞬間を目撃していたんだよな』
原昌也の両親は父親も母親も他界している。25年前に母親は浮気相手に殺され、父親は20年前に団地のベランダから転落死。
『俺が熱を出して学校を休んでいた時にな、家に浮気相手の男が来て母親をナイフで刺し殺した。その時自分の部屋を出ていた俺は母親が殺される現場を見ていたんだ。男はそのまま自分を刺して自殺。あの時に味わった衝撃は今思い出してもゾクゾクする。人が死ぬ瞬間、血が流れていく光景……あれは芸術だ』
気分の高揚が見てとれる原の目付きは常人とは異なっていた。人が死ぬことを芸術と称する原の狂った思考は理解できない。
『あんたが15の時に父親も転落事故で死んでるよな』
『あれは事故じゃねぇよ。俺が殺した。ベランダから突き落としてやったんだ。呆気ない死に様だったなぁ。親父の女が俺に乗り換えてきた頃でさ、親父を殺してくれって頼んで来たんだ』
『女はその後どうなった? まさか殺したんじゃ……』
『ご名答。そのまさかだ。馬鹿な水商売の女だった。付き合うのが面倒になって高校入ってから女も殺した。女はバラバラにして埋めてやった。一度殺れば殺人なんて大したことじゃない。むしろあれは女を抱いてる時の快楽に近い』
原昌也は15歳で父親を殺していた。この男は殺人をしても罪悪感を持たない。
『俺がどうして警察に入ったかわかるか? 堂々と国家のためと大義名分を掲げて人が殺せるからだ。警察と医者はある意味、人殺しのエキスパートだろう? 三種類の人間の中じゃ、俺は人を殺す側だ。早河、お前も殺す側だと思った。初めて会った時から感じていた。冷めた暗い目をしたお前は人を殺す危うさを秘めている』
早河は手に持つ拳銃を眺めた。このトリガーを引けば犯罪者の領域に堕ちる。
人を殺す危うさ。殺すか殺さないかの境界線に自分は立っている。
小学生の頃、地面に集う
綺麗に咲いている草花の葉や茎を手で引きちぎったり、むしりとって遊ぶ同級生もいた。
それを悪いことだと彼らは認識していなかった。
あれは一種の破壊と殺戮の衝動だろう。蟻や草花をひとつの生命とは思わない子供の、無邪気で残忍な殺戮。
誰もがそんな危うい衝動を隠し持っているのかもしれない。
『こちら側に来ないか?』
『何を言っている?』
『その銃であそこの二人を殺せばお前とこの女は殺さずに生かしてやる。少なくとも大事な女の命は守れるぞ』
原は顎で矢野と恵を指した。早河に矢野と恵を殺させても、それでなぎさが助かる保証はない。
『人を殺す危うさねぇ。確かにあんたの言うとおり、俺は人を殺す側に回っていたかもしれない』
潰れた
殺虫剤で虫を殺すことは当たり前。飛んできた蚊は無条件に叩き潰して殺している。人を殺した経験がなくても虫を殺した経験は誰にでもある。
無邪気で残忍な殺戮を、残酷だと認識した時に初めて人間は命の尊さに気付く。
『でも俺はあんたとは違う。人を殺す危うさがあったとしてもギリギリで踏み留まってその境界線は越えない』
早河は拳銃の
この世に生きるすべての命は平等だなんて綺麗事は言わないが、こんな武器を使って守ったところで目の前の愛する彼女は喜ばない。
前方、後方から足音が聞こえる。
メリーゴーランドの柵を軽々飛び込えた長身の男が死角から原の体を羽交い締めにした。
原の拘束を逃れたなぎさが回転板の上に投げ出される。
羽交い締めにされた原をさらに機動隊が銃で威嚇して取り囲んだ。機動隊が照らすライトの眩しさに目を細めた原は顔を後ろにそらし、自分を押さえつける阿部知己を睨んだ。
『チッ。阿部……またお前か。どうしていつも俺の邪魔ばかりする? 昔、俺がお前の女を寝取ったことまだ根に持ってんの?』
『そんな昔の話は忘れた』
阿部が原の両手首に手錠を嵌める。回転板の床に倒れるなぎさを小山真紀が抱き起こした。
「真紀さん……」
「遅くなってごめんね。もう大丈夫」
真紀は泣いているなぎさの背中を優しくさすり、抱き締めた。メリーゴーランドの柵の外に連れ出された原が真紀を一瞥した。
『小山ぁ。お前はいつから俺の正体に気付いていた?』
「昨日、公安の刑事から聞かされるまでは私も知りませんでした。早河さんや上野警部はあなたと行動を共にしている私にはあなたの正体を隠していましたから」
なぎさを連れて原の横を素通りした真紀は早河になぎさを託す。無言で抱き合う早河となぎさを見て原が笑い出した。
『愛情ごっこか。くだらねぇ。早河、いいこと教えてやる。2年前、お前がキングに呼び出されたあの場所に香道がいることをキングに教えたのは俺だ。余分なネズミが一匹紛れ込んでいるってね。香道も馬鹿な奴だよなぁ。お前を庇えば自分が死んじまうのに。香道のああいう熱血漢なとこが目障りだったんだ』
原の不愉快な笑い声になぎさは耳を塞いだ。なぎさを片手で抱き締める早河も悔しげに原を睨み、婦人警官に支えられて立っていた恵は声を上げて泣き崩れた。
これが2年前の真相。なぎさの兄、香道秋彦の死は多くの人間の人生を変え、苦しめ続けてきた。
原の拘束が阿部から他の刑事に代わり、連行される原の前に真紀が立ち塞がる。真紀は平手で原の頬を打った。
乾いた音が鳴り響いて誰もが原と真紀に視線を向ける。
『……先輩を殴るとはいい度胸だな』
「今さら先輩面しないでください。これは香道秋彦を慕うすべての人間の怒りです。
『愛情ごっこの次は正義のヒーローごっこか』
「あなたには私達の痛みや悲しみは一生わかりません」
阿部が真紀の肩に手を置く。真紀は一歩下がって道を開けた。
『これで終わりだと思うなよ。幕はまだ上がったばかりだからな』
不吉な言葉を言い残して犯罪組織カオスのケルベロス、原昌也は連行された。
『小山刑事。君は桐原恵を頼む。これは君の仕事だ』
「はい」
阿部の指示を受けた真紀が恵に手錠をかけた。先輩刑事の香道秋彦の婚約者に手錠をかける……これが刑事である真紀の仕事。
「小山さん。あなた、いい刑事さんになったね」
「できることなら桐原さんに手錠をかけたくはなかったです」
悲しく笑い合う恵と真紀。恵は早河となぎさに歩み寄り、頭を下げた。
「早河さん、なぎさちゃん。ごめんなさい。秋彦は命を懸けて早河さんを守ったのに私は今までそのことを受け入れられずにいた。ケルベロスの口車に乗せられてなぎさちゃんをこんな目に遭わせちゃった……」
「恵さん……お
なぎさにお義姉ちゃんと呼ばれた恵の目から大粒の涙が溢れる。泣いている恵を、泣いているなぎさが抱き締めた。
「まだ私をお義姉ちゃんだと思ってくれるの?」
「当たり前だよ。だってお兄ちゃんのお嫁さんなんだから……私達の家族だから……」
「ありがとう……」
なぎさから離れた恵は早河に微笑みかける。
「早河さん。秋彦の仇、必ずとってね。なぎさちゃんのことも……お願いね」
『はい』
早河が深々と恵に頭を下げる。真紀が恵を連行した小道の反対側から二人の男が歩いて来る。
暗がりの遊園地に懐中電灯の明かりが光った。片方の男を見た矢野が顔をしかめる。
『うわっ。ラスボス登場……』
『誰がラスボスだ、馬鹿者』
この場の誰よりも年長者であり、最高権力者でもある武田健造財務大臣は矢野の頭を小突いた。阿部が武田に一礼する。武田と共に歩いて来たのは上野警部だ。
武田大臣は抱き合う早河となぎさを見てニヤリと笑った。
『仁、あれはなかなか男らしい告白だったぞ。やればできるじゃないか』
『あの時はタケさん達に聞かれてること忘れてたから……』
早河は額に手を当てて項垂れる。恵に撃たれた左腕の傷の心配をしていたなぎさは彼の言動に首を傾げた。
「聞かれてるって何をですか?」
『ここに小型のレコーダーをつけて会話を録音してた。タケさんや矢野は車で待機して俺達の会話を聞いていたんだ』
早河が着る防弾ベストの腰の部分には小型の機器が取り付けてある。彼はそれを外し、矢野の手を借りて防弾ベストを脱いだ。
「そうだったんですか……じゃあ武田さんに全部聞かれて……」
『なぎちゃーん。仁のこと振るなら盛大に振ってやっていいからね! こんな鈍感ポンコツ男は止めて私のところに来なさい』
顔を赤くするなぎさの前で武田が両手を広げた。その手を払い除けたのは早河だ。
『エロジジィは早く帰れ』
『仁は早く傷の手当てをしなさい。お前が使い物にならなくなったら私が困る。それと……なぎささん。ケルベロスを捕まえるためだとしても君には辛い想いをさせてしまった。申し訳ない』
武田がなぎさに頭を下げるのを早河も矢野も唖然として見ていた。武田と付き合いの長い彼らは、武田が議員の職務以外で人に頭を下げる場面を見たことがない。
矢野の加勢も警察の登場もタイミングは武田と阿部の示し合わせだった。もう少し早くに矢野や警察の突入を早くすればなぎさは原に強姦まがいのことをされずに済んだだろう。
なぎさは武田の肩に触れて頭を上げさせた。
「私は大丈夫です。所長が必ず助けてくれるって信じてましたから……」
『ありがとう。仁はいい女を捕まえたなぁ。やっぱりなぎちゃんはお前には勿体ない』
『だから早く帰れ。マスコミが来てタケさんがここに居ることが知れたらマズイだろ』
『はいはい。じゃ、上野警部に阿部警視。後の処理は頼むよ』
『はい。大臣、駐車場までお送りします』
武田と阿部の後ろ姿を見送る早河の脳裏によぎる原の最後の言葉。
――“幕はまだ上がったばかり”――
これで終わりではない。ここからが始まりだ。
加速する未来が、迫ってきていた。
第四章 END
→第五章 天地創造 に続く
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