4-9

 なぎさが甲高い悲鳴をあげる。


「そんな……どうして……」


恵も動揺して周囲を見回した。彼女の持つ拳銃は銃口を下に向けて下ろされている。早河を撃った人物は恵ではない。


 背後から足音が近付いてきた。夕陽の光が邪魔をして、なぎさには近付いてきた人物の顔がすぐにはわからなかった。


「……ケルベロス、どういうつもり?」


 少しずつ鮮明になるケルベロスの顔。恵がケルベロスと呼んだ男の正体に気付いたなぎさは驚愕した。

恵の後ろで控えていた男達がケルベロスに一礼する。


『最初からこうするつもりだったんだろう?』


恵の横に並んだケルベロスは冷めた目で地面に倒れている早河を見下ろした。


「早河さんを殺すつもりはなかったわ!」

『なんだ、ただの八つ当たりか。甘いな。早河は我々組織にとって邪魔者でしかない。始末できる時に始末して何が悪い?』

「あなた達組織の事情は私には関係ない」


ケルベロスは恵を一瞥して肩を竦める。


『おいおい、恵チャン。誰のおかげでここまで出来たと思ってる? お前ひとりじゃ拳銃すら手に入れられないくせに。お前に銃の扱いを教えてやったのも俺だぞ』

「協力は感謝してる。でも協力はするけど手出しはしない契約だったはずよ」

『調子に乗るな』


 ケルベロスが合図すると恵の後ろで控えていた男達が恵となぎさを囲んだ。恵となぎさは引き離され、恵は拳銃を奪われる。


『勘違いするな。こいつらは俺の部下であってお前の部下じゃない。俺の命令しか聞かねぇんだよ』


男に押さえつけられて動けずにいる恵をケルベロスは嘲笑う。彼の隣になぎさを確保した男が並んだ。


『殺すのが惜しいくらいに相変わらずいい女だなぁ』


 ケルベロスはなぎさの顎を持ち上げて卑劣な笑いを浮かべた。なぎさは目の前のこの男が“ケルベロス”である事実が信じられなかった。彼女の震える唇が動く。


「あなたが……ケルベロスなの……?」

『ああ、俺がケルベロスだ』

「嘘……だって……だってあなたは……」

『信じられないなら今から教えてやるよ。お前の身体にな』


 ケルベロスが目で合図を出す。なぎさを拘束する男が嫌がるなぎさをメリーゴーランドの柵の中に引きずり込んだ。


「やめて! なぎさちゃんには手を出さないで!」

『もとはお前がこの女を巻き込んだんだろう。兄貴の恋人だった女にこんな扱いされて可哀想になぁ』


 なぎさの身に何が起きようとしているか察した恵が叫ぶが、メリーゴーランドの柵をまたいで中に入ったケルベロスは恵に無慈悲な言葉を浴びせる。

なぎさを助けたくても二人の男に腕を掴まれて拘束されている状態では恵も動くことができない。


 回転板の床に押し倒されたなぎさの上にケルベロスが跨がった。ケルベロスに撃たれて早河が死んでしまったショックとケルベロスの正体を知った驚きで放心状態のなぎさは声も出せなかった。


 赤い太陽が隠れて陽が落ちていく。紫がかった視界の中でケルベロスの冷淡な眼差しに寒気がした。

ネクタイを緩めたケルベロスは恐怖に強張るなぎさの頬に拳銃を当てる。


『死ぬ前最後の相手が早河じゃなくて残念だったな。お前は俺が存分に可愛がってから殺してやる』


怖い、嫌だ、ここから逃げなくちゃ、そう思っても身体が動かない。


「……やめて……」


 やっとの思いで絞り出した声は小さくかすれていた。サディスティックなケルベロスにはなぎさの怯えも快感の材料にしかならない。


 唇に感じる圧迫感にケルベロスにキスをされたと気付く。必死で口を閉じてそれ以上の侵入を拒否しても、もがいた拍子に唇の隙間から差し込まれたケルベロスの舌が気持ち悪かった。

優しくもない、愛情もない、男の欲望を押し付けただけの接触に吐き気が込み上げる。


ジタバタともがいた手足もすぐにケルベロスに押さえつけられ、ストッキングが引き裂かれる音がする。首筋を強く吸われて痛みを感じた。


身体に触れるケルベロスの手つきは乱暴で強引で、恐怖と不快感しか産まない行為。

このままケルベロスに犯される絶望を抱えたなぎさは固く目を閉じた。


『……なぎさに触るんじゃねぇよ』


 紫色に染まる園内に怒号が響いた。なぎさに覆い被さっていたケルベロスは上体を起こし、ある方向に視線を向ける。


地面に倒れていたはずの早河が立っていた。目を開けたなぎさもメリーゴーランドの柵越しに見えた早河の姿に涙が止まらない。


『やはりそうか。防弾ベストを着ているな?』

『着ておいて正解だったよ。衝撃でしばらく動けなかったが死ぬよりはいい』


 早河とケルベロスが睨み合う。早河が一歩前に出た。


『なぎさを離せ』

『離せと言われて素直に離す人間いねぇぞ? それ以上近付くと今度はお前の頭を撃ち抜く。射撃は俺の得意分野だからな。ここからでもお前の頭めがけて弾をぶちこむなんてことは簡単だ』


ケルベロスは早河に銃口を向けた。早河の動きが止まる。


『そこでこの女が俺のものになるのを黙って見てるんだな。こうなると死んだ方がマシだったんじゃないか?』


 部下に早河を威嚇させてケルベロスは再びなぎさに馬乗りになった。嫌がるなぎさの悲鳴が聞こえて、早河は拳を握って目を閉じる。


『黙って見てろ? ……ふざけるな』


 小声で吐き捨てた後、早河は拳銃を持つ男めがけて突進した。男が銃を撃つよりも速く、男の手から銃を奪って殴りかかる。

負傷した左腕は使い辛く、男も早河の左腕に攻撃を集中させてきた。


 恵を押さえつけていた二人の男も加勢して早河に襲いかかった。早河の背後に攻撃を仕掛けようとしたところに別の人間の攻撃が加わり早河への攻撃を防いだ。

早河は男の拳をかわして腕をねじりあげると後方を見た。


『遅い! 来るならもっと早くに来い!』

『武田のクソジジィからなかなかゴーサインが出なかったんですよ……! これでも予定より早く登場したつもりなんですけどねっ』


矢野一輝が男の鳩尾みぞおちに横蹴りを喰らわせる。矢野はもうひとりの男にはスタンガンを当てて気絶させた。


 早河と矢野の二人がかりでケルベロスの部下は全員地面に倒れた。

左腕を押さえて立つ早河の周りの地面は彼自身の血や男達から流れた血で赤く染まっていた。早河のジャケットは脱ぎ捨てられてグシャグシャになっている。


矢野がネクタイを使って早河の腕を止血する。早河と矢野の格闘劇を見物していたケルベロスは悠長に口笛を吹いて拍手した。


『まるで青春学園ストーリーを見ているようだ』

『くだらないこと言ってないでなぎさを離せ』


 早河は地面に落ちている拳銃を右手で拾い上げてケルベロスに銃口を向けた。


『早河さんっ……! それはまずいって! 今は刑事じゃないんだから……』


泣いている恵に駆け寄った矢野が早河を制止するが、早河はそれを無視して拳銃のグリップを握る。刑事を辞めて以来、久々の銃の感触だ。


『お前に撃てるのか? 相方さんも心配してるが今のお前は刑事じゃない。撃てば犯罪者になるぞ』

『お前のような奴になぎさが犯されるくらいなら俺はお前を殺す』

『まったく。かなりこの女にご執心だな。残念だよ、早河。お前はもう少し頭のいい奴だと思っていたが』

『俺も残念だよ。あんたがケルベロスだったとはね。……原さん』


 早河が銃を向ける相手は元同僚の警視庁捜査一課所属の刑事、原昌也だった。

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