4-6
小料理屋の女将の明子から香澄の意識が戻ったと連絡を受けた早河は四谷三丁目駅で上野達と別れて病院に駆けつけた。
集中治療室のベッドに寝かされた香澄に歩み寄る。
『香澄』
彼女の名前を囁く。目を開けた香澄は呼吸器をつけた口元で微笑した。
『俺のせいで……ごめんな』
彼女は目を細めて顔を少し左右に動かした。細めた目には涙が浮かんでいる。
呼吸器の中で香澄が口を動かした。側にいた看護師が気付いて呼吸器を外してくれる。
早河はベッドの傍らに膝まづいて香澄と目線を合わせた。
「私ね……仁くんがだいすき」
『うん』
「だから……仁くんには幸せになってほしい」
チューブの巻かれた腕を必死で動かして香澄が早河の手を握る。早河は両手で香澄の手を包んだ。
「ねぇ仁くん。人を好きになるのに……資格とか……好きになっちゃダメとか……ないんだよ……。だって、人を好きになるって……凄く素敵なことだもん。……ね?」
穏やかに微笑む香澄の言葉に早河は頷く。目の奥に涙が溜まっていく。
『香澄、ありがとう』
集中治療室を出て病院の廊下を進むと矢野一輝が待っていた。矢野の隣には小山真紀もいる。
『小山。お前も来ていたのか』
「もう除け者扱いは嫌ですからね。栗山警部補からも一輝からも話はすべて聞きました」
真紀は早河と矢野を睨み付けた。真紀の怒りの形相に二人は苦笑いするしかなく、矢野は真紀に向けて両手を合わせる。
『まーきぃー。いい加減許してくれよー』
「別に怒ってません。怒ってないけど、早河さんも一輝も上野警部も……まったく。皆が私に隠していた理由はわかりますけどね。……早河さん、これを。群馬県警から取り寄せた桐原恵の戸籍謄本です」
早河は真紀から受け取った書類に目を通す。彼の横から矢野も書類を覗いた。
早河も矢野も、桐原恵の戸籍謄本に記載されたある事柄に驚愕する。
『これは……さすがに驚いたな』
『そうなると桐原恵がケルベロスに加担する動機も見えますね』
「私、なんだか悔しいです。こんなに悲しいことがあるなんて……」
悲しい真実とやりきれない想い。早河も矢野も真紀も、複雑な表情をしていた。
非通知の着信が早河の携帯に入ったのはその直後だった。通話ボタンを押して耳に当てる。
{早河さんですね?}
『そうですが……桐原恵さんですか?』
非通知の主の声はどこかで聞いた記憶のある懐かしい女の声だった。側にいた矢野と真紀が息を呑んだ。
{お久し振りです。お元気でした?}
『なぎさを連れ去ったのはあんただな?』
{そうよ。あなたに復讐するためにね}
はっきり告げられた復讐の二文字が心に突き刺さる。
『あんたの狙いは俺だろ? なぎさは関係ないんだ。早く解放してくれ』
{彼女を助けたかったら、今日の午後4時、西東京市のスカイランドに来て}
『4時に西東京市のスカイランド……』
早河は矢野と真紀と視線を合わせた。
{必ずひとりで来てね}
通話はそこで途切れた。通話終了となって暗くなる液晶画面を見つめる早河は覚悟を決めた。
『……矢野。準備はできてるんだよな?』
『いつでもオーケーですよ』
『じゃあ一番危険で確実な方法で攻めに行くか』
*
なぎさは部屋の隅で壁に背をつけて座っていた。食事とトイレの時だけ手足を縛る紐は解かれるが用が済めばまた手足を拘束されて部屋に閉じ込められる。
部屋の中には誰もいない。しかし部屋を出た通路には大柄な男が何人もいて逃げ出すことは困難だった。
冷えないようにと身体に毛布をかけてくれたのは恵だ。なぎさの身体を気遣う優しさはまだ彼女に残っている。それが救いだった。
部屋を出ていた恵が戻ってきた。
「もうすぐ早河さんがここに来るよ」
「恵さんお願い。こんなこともう止めて……」
なぎさの哀願も恵は聞き入れない。彼女はコートのポケットから拳銃を出した。
恵の手にある重々しい武器を見て血の気が引く。
「ごめんなさい。私もね、どうしたらいいのかわからないの」
窓の外から漏れる光に照らされた殺風景な部屋。エアコンの室外機の音が耳障りなほどよく聞こえる静寂さで、二人の女の想いが交差した。
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