3-8
早河は西麻布のバーの扉を開けてカウンター席に座った。開店前のバーは人の気配はなく、紫と青色の照明だけが妖しげに灯る。
この店にバーテンとして潜り込ませている早河の協力者の高木涼馬は早河に温かい烏龍茶を提供した。早河は烏龍茶の登場に苦笑してカップに注がれたホットの烏龍茶に口をつける。
『バーで烏龍茶とは相変わらず健康志向だな』
『早河さんも酒と煙草はほどほどにしてくださいよ。今はまだいいけど10年後に絶対ガタが来ますよー』
高木は童顔の可愛らしい顔つきをしていてもれっきとした28歳、矢野一輝の高校時代の悪友だ。
矢野と親しく付き合うようになってからは矢野の友達の高木との絡みも増え、彼とも十年来の付き合いだ。高木も早河の探偵業の手助けをしてくれている。
『わかってるって。それで、昨夜ここに来たのはこの男で間違いないな?』
早河は高木に一枚の写真を見せる。高木は写真をじっと見て頷いた。
『間違いないです。昨日来たのはこの男です。来店は22時過ぎだったかな、1時間くらい居て、女と一緒でした』
『連れの女の特徴は?』
『歳は30前後、髪型は肩よりもちょっと下の長さの黒髪で悲壮感漂う美人。サスペンスドラマで夫を殺された未亡人って感じの』
高木の説明を早河は手帳にどう書き記すか思案した。とりあえず、三十代女、肩より少し下の長さの黒髪、イメージは悲壮感、未亡人、と殴り書きする。
『お前の説明だとイマイチわからないが、二人の仲はどんな風だった? 仕事仲間か友達か恋人か』
『恋人や友達って雰囲気じゃなかったね。親しいようで微妙な距離感があったし……。そこの席に座っていたんですよ』
高木はカウンターの内側から早河の背後を指差す。振り向いた早河は無人の座席を眺めた。
紫と青色に照らされた店内に並ぶ黒いテーブルと椅子。昨夜その場所に座っていた男と女を想像する。
『二人の関係を強いて言うなら仕事仲間がしっくりきますね』
『仕事仲間ね。ちなみに男と一緒だったのはこの女だったか? これは昔の写真だから今とは容姿が異なるだろうが……カオスのクイーンだ』
早河は犯罪組織カオスのクイーン、寺沢莉央の写真も見せる。なぎさが所持していた高校時代の莉央の写真だ。今は25歳となっている莉央の現在の姿は早河もなぎさも知らない。
『うわっ。めっちゃ美人。これがクイーンかぁ。でも男といたのはこの女じゃないですよ。こんな美人がいたら店が騒ぎになってますって』
『そうか……』
『そういえば、キングの貴嶋の写真って持ってないんですか? 高校の時のヤツとか。俺も一輝も貴嶋の顔は知らないんですよね』
莉央の写真を早河に返した高木はついでに空になった烏龍茶のカップを下げる。
『貴嶋の写真はないんだ。高校時代に貴嶋とツーショットなんか撮ったこともなかったし、あいつは卒業までいなかったから卒アルにも写ってねぇしな……』
『じゃあ早河さんしか貴嶋の顔がわからないってことか。考えると恐ろしいな。貴嶋と道ですれ違ってもわからねぇじゃん。……あ、それでそれで、例の二人が何を話しているのかは他の客の話し声や音楽もかかってて聞き取れなかったんですけど、そいつらの隣のテーブル片付けてた時に京都がどうのって言ってるのは聞こえました』
『……京都?』
最近どこかで、その地名を耳にした。思い出して早河は戦慄する。なぎさだ。
なぎさが日曜から行っている取材旅行先が京都だった。
『早河さん? どうしたんですか?』
高木が早河の異変に気付いて声をかけるが早河の耳には届かない。早河はその場で携帯を出してなぎさの携帯番号に繋げた。
{……電源が入っていない為……}
なぎさの携帯電話は電源が切られていた。早河は舌打ちして携帯を乱暴にテーブルに放る。カウンターを滑った携帯が危うく下に落ちそうになり、高木が慌てて受け止めた。
『早河さん、ちょっとこれ飲んで落ち着いてください』
早河は出された二杯目の烏龍茶を喉に流す。停止していた思考がゆっくり動き出した。
早河が最初に高木に見せた写真は犯罪組織カオスの幹部、ケルベロスだと疑っている人物の写真だ。
高木の目撃証言によると、昨夜ケルベロスが女を連れてこの店に現れた。そして二人の会話に“京都”という言葉が出てきた。
これが偶然なはずない。ケルベロスの狙いは……
そこまで思考を巡らせた時に早河の携帯電話が振動した。
着信表示は
『はい、早河です』
{ひよりの女将の宮崎です。あの、香澄ちゃんが……}
普段はおっとりした口調の明子がひどく慌てている。
『香澄に何かあったんですか?』
{……香澄ちゃんが……刺されて……}
『刺された?』
早河は高木と顔を見合わせた。高木も開店準備の手を止めて息を呑む。
{出勤時間になっても香澄ちゃんが来なくて、電話にも出ないから家に様子を見に行ったんです。そうしたら……香澄ちゃんが家の中で血だらけになって倒れていて……}
『香澄は……今は……』
携帯を持つ手も話す声も、全身が震えていた。
{まだ手術中なの}
『どこの病院ですか? 俺もすぐに行きます』
明子から病院の場所を聞いてメモする。香澄と面識のある高木は電話が終わるとカウンターに身を乗り出した。
『香澄ちゃんが刺されたって大丈夫なんですか?』
『詳細はまだわからないが手術中らしい。お前も気をつけてくれ。オーナーには近いうちにここを辞められるよう俺から話をつけておく。このバーはカオスが取引に使うと噂されている店だ。長居は危険だからな』
高木は表情を固くして頷いた。バーを出た早河は近くの駐車場に停めた車に乗り込んで香澄が運ばれた病院に向かった。
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