第三章 失速の交差点

3-1

11月10日(Tue)午前0時30分


 ここには愛も優しさも思いやりもない。あるのは利害の一致と甘さとは程遠い快楽。


 彼女は自分の身体の上にいるケルベロスを見上げた。彼の鍛え上げられた逞しい胸元に汗が滲み、彼の肌を妖しく湿らせている。

繋がれた手は温かいがそれは生きている人間の体温というだけのこと。この男から温もりなど感じない。


 うつ伏せになった彼女の背後から獰猛な獣のたかぶりが侵入してくる。両手で腰を拘束され、彼の体重をかけられた彼女は逃げることも許されず、男と女の接続部に加えられる乱暴な刺激に堪えた。


彼女は枕に顔を埋めて感情の宿らない瞳を閉じた。暴力的な快楽は加速度を増して、冷える心とは反対に身体は熱を帯びていく。


 どうしてこうなったのか、なぜ自分はこんな場所にいてこんな男と身体を重ねているのか、そんなこと、もはや自分自身に問うのも疲れた。

彼女には何もない。何も残っていない。

差し出せるのは身体だけ、だからこうなった。


 すべてを終えて彼女の身体を離れたケルベロスはテーブルに置かれたミネラルウォーターを一気に飲み干し、彼の裸体は浴室に消えた。


 彼女はケルベロスが吐き出した欲望の塊の処理をする。腹部から太ももにかけてべったりと付着したそれを拭き取るのにティッシュを何枚消費したかわからない。手が精液の臭いにまみれて不快だった。

ケルベロスは避妊具を使用しない。誰に対してもそうなのか、自分だけがこんな扱いなのか、そんなことを考えるのも疲れる。


「……はぁ」


 短い溜息をついた彼女はシーツを手繰り寄せて、まだ快楽の余韻で疼く身体を抱き込むようにベッドに寝そべった。

下半身の奥がひりひりと痛かった。あんなに乱暴に扱われたら、どこかが裂けているかもしれない。


 ケルベロスはシャワーを浴び終えたらこの部屋を出ていくだろう。彼と夜を過ごしても共に朝を迎えたことはない。

こちらもそんな甘ったるいものを彼に望んでもいないが。


「もうすぐ……もうすぐだから」


固く握り締めた拳は決意の現れ。もうすぐ始まり、そして終わる。


 バスローブを羽織ったケルベロスが浴室から出てきた。こちらは精液と汗の臭いにまみれているのに、自分だけはさっさとシャワーを浴びている。そういう男だ。


濡れた髪をタオルで雑に拭う彼は彼女には見向きもせずにベッド横のソファーに腰を降ろした。煙草を咥えて一服するケルベロスを彼女はベッドから見つめる。


『……なんだよ。そんなに俺のこと見つめて。まさかとは思うが俺に惚れた?』

「気持ちの悪い冗談言わないで」

『さっきまで俺の下であんあん喘いでいたくせに。ま、お前が俺に惚れるわけないな。俺もお前に惚れることはない』

「別にあなたに好かれたいと思ってはいない。よくそんなにのんびり構えていられるなと思っただけ」


身体を起こした彼女は手ぐしで髪を整えた。セミロングに整えた髪の毛が汗で湿った額に貼り付いた。紫煙を吐き出したケルベロスは薄く笑う。


『のんびりしているように見えるか?』

「見えるわよ。ホテルで女抱いてる暇があるなら他にやるべきことがあるんじゃない?」

『はっ。確かにやるべきことはある。だが計画の第一段階が終わった今は派手な動きはしないに限る。チョロチョロとうざったいネズミが周りを嗅ぎ回ってるしな』


 忌々しく眉を寄せたケルベロスは煙草を咥えて立ち上がり、クローゼットにかけたジャケットから二台の携帯電話を取り出した。

一台は彼が実名で名乗っている表で使用している携帯、もう一台は犯罪組織カオスのケルベロスとしての携帯だ。どちらにも新着の知らせはない。


『今日はここに泊まる』

「え?」


ベッドにいた彼女が怪訝に顔を上げた。


『これと言って急用もないからな。移動するのも面倒だからここで寝ていく』

「……そう」

『そんなガッカリした顔するなよ。俺と居たくないのはわかるが、そうあからさまに残念な顔されるとさすがの俺も傷付く』


 彼は煙草を咥え直してベッドの端に腰かけた。ケルベロスの手が彼女を抱き寄せてキスを迫る。顔を背けても無許可に奪われた彼女の唇は煙草の味がする舌に犯された。


「傷付くって言葉はあなたには似合わない。サディスティックなあなたは傷付けられるのではなく、傷付ける側でしょう?」

『口の達者な女だな。そういうお前はどっちだ? 傷付けられる側か傷付ける側か』


ケルベロスが彼女の顎を持ち上げる。視線の交わりを強制させられた彼女は少し考えてから口を開いた。


「私は……傷付いて泣くのはもう嫌。何もできなくて泣いてばかりいた自分が嫌だった」

『だから俺と組む気になった、力を獲て傷付ける側になるために。そうだろ?』


 サイドテーブルにあるもうひとつの灰皿に彼は煙草を捨て、彼女を押し倒してもう一度キスをする。

優しくもない甘くもない接触。

それでも今の彼女にはこの接触こそ何より確かな“力”だ。


 上と下で彼と彼女の視線が交ざる。


「そう。私は傷付ける側を選んだ。あなたと同じ」

『それでいい。それでこそ俺が選んだパートナーだ』


彼の唇が彼女の胸元に強く吸い付いて、彼女は身をよじらせる。


「私もシャワー浴びたいんだけど」

『後にしろ。泊まると決めたからにはまだまだ相手してもらわねぇとな』


ケルベロスは口の端を吊り上げたニヒルな笑いを浮かべて彼女の身体に覆い被さった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る