2-11
――京都――
嵐山での撮影を終えた取材班一行は嵐山駅近くの右京区のホテルに宿泊していた。
夕食後、上司の美奈子とカメラマンの沢口と写真選びや簡単な打ち合わせを済ませた金子拓哉はホテルの自室に引き上げた。
金子もなぎさも昨夜の一件は心にしまい、仕事として恋人役を演じていたが、二人の胸中には今日の夜の“約束”が眠っている。
金子の部屋は505号室。部屋に入って彼はベッドに腰かけた。取材旅行は終わった。まだ夜の9時、今からは完全なプライベートの時間だ。
(風呂にでも入るか)
湯気の立ち込める浴室の鏡に映るのは何かを決意した男の顔。彼女が自分を選んでくれるなら、誰よりも愛して幸せにする。
(俺ならあんな悲しい顔はさせない)
好きな人がいると告げられた時、この恋は叶わない恋だと悟った。それでも彼女が幸せならそれでいいと思っていた……はずだった。
だけど今の彼女は悲しそうで今にも泣き出しそうで、彼女の笑顔を曇らせる男に苛立ち、嫉妬した。
それならば奪ってやろうか。もし1%でも望みがあるなら最後の悪あがきをしてみよう。
――部屋に来て欲しい――
彼女は来るだろうか。もし彼女が部屋に来たら絶対に手離さない。これは目に見えない男との勝負。
金子はシャワーを頭から浴びてそっと目を閉じた。
*
511号室がなぎさに割り当てられた部屋だ。彼女はシングルベッドに横になり、携帯電話を握り締めた。
金子との約束の答えが出ない。
どうすればいい? どうしたい?
このまま金子の部屋に行って、早河のことは忘れて金子に身を委ねてしまおうか……そんな考えが頭をよぎる。
でもそれは金子を恋愛対象として見ているのではなく、早河を失った寂しさから逃げたいだけだ。
(やっぱり一度も連絡くれない)
早河からの着信履歴もメールの履歴も、なぎさが事務所を辞める数日前の日付で止まっている。早河は用事がないと連絡しない。
助手を辞めたなぎさに今更、彼が連絡することなんてないとわかっていても心の片隅では甘い期待をしてしまう。
これでは別れたいと自分から言い出して男に引き留めてもらいたい身勝手な女の真似事だ。
(所長が私をカオスとのことに巻き込みたくないのはわかってる)
早河の気持ちはわかっている。だけど早河への恋心とは別にして、兄を殺した貴嶋を追いたい、友人である莉央を救いたい。
早河と一緒にカオスを追いたい気持ちは変わらない。なぎさの想いを早河は充分に理解している。だから遠ざけた。
(私のことを考えてくれたんだよね。でもその優しさが辛い。所長の傍に居たいのに……居させてもらえない)
涙がベッドのシーツを濡らす。手の中で握り締めていた携帯が着信音を鳴らした。表示を見ると矢野一輝からだ。
「……はい……」
{ああ、なぎさちゃん? 今って仕事中?}
久しぶりに聞く矢野の声にホッとする。早河の助手として探偵事務所に勤務してからは矢野とも毎日のように一緒にいた。
その日々がすでに遠い昔に感じて懐かしかった。
「仕事は終わっていて……今はひとりで部屋に……」
{もしかして泣いてた?}
矢野はさすがに察しがいい。なぎさはベッド脇に置かれたティッシュに手を伸ばして目元を拭う。
「はい……」
{早河さんのこと考えてたの? 助手を辞めたって聞いたよ}
いつもと同じで矢野の声は温かく優しい。いつも彼は兄のようになぎさに接してくれる。
(こんな優しい矢野さんが彼氏で、真紀さんが羨ましい)
「土曜日に辞めたんです。所長がライターの仕事だけにすればいいって」
{そっか}
「私を巻き込みたくないのはわかっているんです。だけど私は所長と一緒にカオスを追いたいのに……」
しわくちゃになったティッシュが手から落ちた。矢野に気持ちを吐き出しているとまた涙が止まらなくなって溢れてくる。
{早河さんは口下手なんだよね。昔っからそうなんだけど、大事なことほど言わないし、大事なものほど手離そうとする}
溜息混じりの矢野の声。
{早河さんはなぎさちゃんのライターとしての今後を考えていたんだよ}
「……え?」
{なぎさちゃんが書いた記事をこっそり見てたの、知ってる?}
「ええっ? 記事って……所長が?」
{いつも俺になぎさちゃんが書いた記事が載ってる雑誌を買いに行かせるんだよ。あの人はなぎさちゃんの記事、ちゃんと読んでるんだ。早河さんのデスクの一番下の引き出し、あそこにはなぎさちゃんが書いたこれまでの記事の切り抜きや雑誌が沢山入っているんだよー}
驚きのあまり、なぎさは言葉が出なかった。気づいた時には涙も止まっていた。
「所長、私の仕事には興味なさそうだったのに」
{興味ないフリして裏でこっそり見てるんだよ。あれは親に隠れてエロ本読んでるむっつりスケベなガキだな。やらしい人だよね}
矢野の例え話は不思議な説得力があり、彼女は妙に納得してしまった。
「所長どうしてます?」
{荒れてる。夕方からビール飲みまくったり煙草の量も増えてたし……。さっき事務所に行ったけど早河さん居なかったんだ。酔っぱらいがふらふらとどこに行ったんだか。俺じゃ面倒見きれない}
茶化してはいても矢野も早河の荒んだ様子に参っているらしい。最後にはまた大きな溜息が聞こえた。
{なぎさちゃんが居なくなっただけで、メンタルぶっ壊れて荒れてるんだからね。自分で手離したくせにどうしようもねぇよ}
「……矢野さんどうしよう……」
{ん?}
「私が居なくなって所長、壊れちゃったんですよね?」
無意識に胸元に手を当てる。鼓動の大きさ、速さを確かに感じた。
{うん、もう破滅的にね}
「それってすごく嬉しいかも。あ、飲み過ぎや煙草の量が増えるのは心配なんです。でも私が居なくなって壊れちゃったことが、その……」
今度は火照った頬に手を当てる。電話の向こうでは矢野が大笑いしていた。
{あーあ。ノロケちゃってさー。ご馳走さま。二人ともお互いの前では素直じゃないよねぇ}
「え?」
{取材旅行から帰ってくるの明日だよね?}
「はい。明日の夕方には東京に着きます」
{じゃあその足で早河さんに会いに行ってやって。で、その場で告っちゃいな}
「ええっ! 告白って……」
さらに顔が熱くなった。そうすると、明日の今頃には早河に告白していることになる。
{あの鈍感探偵には正面からぶつかるのが一番だよ。早河さんもなぎさちゃんも……亡くなった香道さんのこと気にしてるけど、周りが何と言おうと好きなものは好き、それでいいじゃん?}
「……はい」
火照った頬に涙が流れる。矢野のおかげで決心がついた。しばらく彼と談笑して通話を終えたなぎさはルームキーを手にして部屋を出た。
揺らぎのない気持ちを伝えるために向かった先は金子の部屋の505号室。ノックをするとすぐに扉が開いて部屋着に着替えた金子が現れた。
シャワーを浴びた後のようで、金子からは石鹸の香りがする。
『何か飲む?』
側の冷蔵庫を開いて金子は缶ビールを出した。なぎさは閉じた扉を背にしてかぶりを振る。
缶ビールに口をつけてベッドに浅く腰かけた彼はいまだに扉の前から動かないなぎさを一瞥して笑った。
『こっちおいでよ。そんなところに突っ立ったままじゃ何もできないよ?』
「何も……するつもりはないです」
『へぇ。何もするつもりがないのに男の部屋に来たの? 無用心だなぁ』
サイドテーブルに缶ビールを置いた金子がなぎさに歩み寄る。
『俺もそこまでお人好しじゃないし優しくもないよ。香道さんが俺の部屋に来たのなら朝まで帰す気はない。本気で襲うけどいい?』
「金子さんの部屋に来たのは電話では失礼だと思ったからです。直接お断りしたくて……」
普段の金子とは違う、彼が醸し出す男の迫力にたじろいだが、ここで流されてはいけない。部屋に行けばこうなることは予想がついていた。
「金子さんとはお付き合いできません。ごめんなさい」
『女と腕組みながら夜の街に消えた男のどこがいいの?』
「あれは仕事です」
強い口調で反論するなぎさの頬に金子が触れた。すぐに部屋を出ていけるように扉を背にしていても、扉のロック位置には金子の手がある。
彼の顔が近付いて来てなぎさは固く口を閉じて身構えた。唇の接触まであと数センチの距離で金子の動きが止まる。
『あの時泣いてたくせに。そんなにあの男が好き?』
「はい」
『このまま想い続けても幸せになれないかもしれないのに?』
「金子さんには関係ありません。幸せかそうじゃないかは私が決めます。泣くことも沢山あっても、私は彼を好きになれて幸せなんです」
身動きひとつしない金子となぎさ。金子は無言でなぎさを見つめて失笑した。
『俺の
肩を落とした彼は項垂れて近くの壁にもたれた。
『悔しいけど敗けたよ。香道さんの好きな男に……完敗』
「ごめんなさい」
『いいんだ。香道さんの言うとおりだよ。幸せかそうじゃないかは香道さんが決めることだよね。俺は勝手に香道さんが不幸だと決めつけていた。俺の方こそごめん』
頭を垂らす金子になぎさはかける言葉が見つからず、首を横に振ることしかできなかった。
『香道さんの気持ちはわかったよ。……もう行きなよ』
「はい。また明日……おやすみなさい」
『おやすみ』
扉の閉まる音がすると同時に金子はその場に座り込む。堪えていたものが溢れて、目元を濡らした。
『本気で惚れた女に振られるのはキツイなぁ……』
自嘲気味に笑った彼は潤んだ目元を手のひらで押さえた。
彼の悪あがきはどうやら無駄な抵抗だったようだ。
第二章 END
→第三章 失速の交差点 に続く
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