2‐9

 二人の不機嫌な男が早河探偵事務所の空気を重くしている。その隙間から夕暮れの赤い太陽の光が差し込んでいた。


『わざと冷たくしてなぎさちゃんに助手辞めさせたんですか? なぎさちゃん、絶対傷付いたと思いますよ』


壁に背をつけて腕組みする矢野はいつも陽気な彼らしくない、辛辣な言葉を発した。


『俺に傷付けられるならまだマシだろ』


 早河の身体はリクライニングチェアーに沈み、ビールの缶を傾けている。デスクの上の灰皿は吸殻で埋もれていた。


『わかってないな。早河さんに傷付けられるのがなぎさちゃんは一番堪えるんですよ』

『カオスに近付けば近付くほど、俺達は今よりさらに危険な立場に立たされる。お前ならわかってるだろ。命の危険を伴う前になぎさにはカオスから手を引かせるべきなんだ』


空になったビール缶を握り潰した彼はデスクに置かれた未開封の缶に手を伸ばした。矢野が進み出て早河の手から缶を取り上げる。


『飲み過ぎ。まだ夕方だっていうのに。何荒れてるんですか』

『……別に荒れてねぇよ』

『早河さんの気持ちはわかります。でもそこまでなぎさちゃんの身を案じているなら、早河さんがなぎさちゃんを守ってやればいいじゃないですか』


 矢野は早河から取り上げたビール缶を静かにデスクに置く。乱れた前髪を掻き上げて早河は矢野を見上げた。


『簡単に言うなよ』

『早河さんにとって、なぎさちゃんはただ香道さんの妹だから守るべき存在になっているだけじゃない。なぎさちゃんの存在がそれだけじゃないことは見ていればわかります。本当はもう、自分の気持ちに気付いてるでしょ?』


黙り込む早河はリクライニングチェアーの背に頭を乗せ、目を閉じた。


『意気地無し』

『何だと?』


閉じていた目を薄く開けた早河が矢野を睨む。矢野は早河を挑発するように鼻で笑った。


『大事なものひとつ守る覚悟もできないとはね。とんだ意気地無しだなと思って。そんなヘタレじゃ、貴嶋は潰せませんよ』

『さっきから何なんだよ。なぎさが助手を辞めたことがそんなに気に入らねぇのか?』

『気に入らないね。なぎさちゃんを遠ざけたのは自分なのにそれで荒れてる早河さんが俺はめちゃくちゃ気に入らない。殴っていいなら殴りたい。こんなにビール飲んで、何やってるんですか。今は荒れてる場合じゃねぇのに……』


 溜息混じりの独り言を吐いた矢野はデスクに散らばる空のビール缶をコンビニのビニール袋に詰めた。


『お前に何がわかるんだよ』

『わかるから気に入らないって言ってんだよ。早河さんの気持ちもなぎさちゃんの気持ちもわかるから。俺から見れば二人ともれったくてしょうがねぇよ。自分の気持ち何ひとつ言わないまま手離したくないのに手離して、離れたくないのに離れて』


空き缶で膨れ上がったビニール袋を矢野はゴミ箱の横に置いた。こんなに荒れた早河を見るのは2年振りだ。香道秋彦を失ったあの時の彼もこんな状態だった。

良くも悪くも、香道兄妹きょうだいは早河のメンタルに多大な影響を及ぼすらしい。


『とにかく、今は呑んだくれて荒れてる場合じゃないってことは自覚してくださいよ』


 何も言わない早河に背を向けて矢野は事務所を出た。苛立ちに任せて螺旋階段を駆け降りた彼はたった今までそこにいた二階の窓を見上げる。


『まじにどうしようもねぇ人だな……』


コートのポケットに入る携帯電話が振動する。矢野の伯父の武田財務大臣からの呼び出しのメールだ。


『あのクソジジィ……呼びつければ俺がいつでも行くと思ってやがる』


 早河もなぎさも、伯父も、みんな勝手だ。どいつもこいつも、世話が焼ける。


(これは早いとこ、なぎさちゃんに帰って来てもらわないと早河さんがダメダメになっちまう)


素早くメールの返信を打って、矢野は大通りに足を向けた。


         *


 矢野が立ち去った事務所でひとりになった早河は視線を上げて室内を見回した。

この部屋はこんなに広かったか? こんなに寒々しかったか?


 なぎさがライターの仕事で不在の日に事務所でひとりきりで過ごす日は、これまで何度もあった。それでも彼女はいつもに帰って来てくれる。


 彼が『ただいま』と言えば「お帰りなさい」と彼女が出迎え、熱くて濃いコーヒーを淹れて「お疲れ様です」とねぎらってくれる。

彼女の笑顔を見ると不思議と疲れも吹き飛んだ。いつの間にかそれが当たり前で、そんな日常がこれからも続けばいいと願っていた。


 携帯電話に残るなぎさの連絡先。彼女が助手を辞めたあの日から連絡はしていない。

今頃は京都の取材旅行の真っ只中だろう。


『しょうがねぇだろ。離さないと……なぎさが危なくなるんだから……』


 会いたいと思ってしまうのは何故?

 恋しいと思ってしまうのは何故?

 その答えを自分は知っている。


 わかっていたのに目を背けて、気持ちに蓋をして誤魔化した。

本当はもうずっと前から、わかっていたことだったのに。

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