2-7
10月から12月の第一週までの毎週月曜日は選択科目の講義があり、美月は〈ギリシャ神話と人間心理学〉を受講した。ギリシャ神話を学び神話から人間心理を読み取る授業だ。
毎年この講義を担当している教諭は心理学専門の小林教授だが、小林はヨーロッパの研究機関に招かれて長期出張で不在だ。
小林教授の代わりに講義を担当するのは外部から招いた非常勤講師の三浦英司。
『では今日はここまで』
腕時計を見た三浦英司は低音の声を教室に響かせた。
「はぁ……三浦先生かっこいい」
美月の隣に座る友人の志田絵理奈はうっとりした表情で黒板の前に立つ三浦を見つめている。美月はまたかと苦笑いして、シャープペンシルをペンケースにしまい、三浦に視線を移した。
確かに三浦英司は格好いいと思う。
年齢は絵理奈の予想では三十代半ば。長身で細身のわりには肩幅は広い。
男性にしては肩にかかるくらいの長めの髪、銀のフレームの眼鏡が知的な印象だった。
どこか冷たくミステリアスな雰囲気を与える三浦はその風貌から女子学生には密かに人気がある。授業もわかりやすいと評判だ。
しかし三浦は授業以外は学生とほとんど話をしない。近寄りがたい雰囲気があり学生達も三浦に話しかけるのを遠慮してしまうのだ。
三浦ファンの絵理奈からすればそのミステリアスさが三浦の魅力だと以前に力説していたが、美月には彼の何がそこまで魅力的なのかわからなかった。
「三浦先生って彼女いるのかなぁ? あの年齢なら結婚もしてそうだけど結婚指輪なかったし……いやでも、仕事の時は指輪嵌めないタイプかも?」
隣では変わらず三浦に熱い眼差しを向ける絵理奈が独り言を呟いている。
美月は講義室を見渡した。授業終了のチャイムと共に学生達が講義室を出ていく。
これから昼休みだ。次の講義があるわけではないから慌ててここを出る必要もない。
でも美月は三浦の授業の時はいつも授業が終わると早く講義室を出たくなる。理由はわかはないが、きっと自分は三浦のことがそれほど好きではないのかもしれない。
彼女はバッグにノートと教科書を入れて立ち上がった。
「絵理奈、行くよ」
「えっ……美月、ちょっと待って! 三浦先生に彼女がいるか聞こうよ」
絵理奈が美月の腕を掴んですがり付く。美月は呆れた顔で再び椅子に着席した。
「はぁ? なんで?」
「だってあの謎に包まれた三浦先生のプライベート気にならない? もう教室には私達と先生だけだしさ……」
いつの間にか講義室には美月と絵理奈、三浦だけが残っている。それもこれも、絵理奈がいつまで経っても教科書やノートの片付けをせずに三浦ばかり見ているからだ。
三浦は黒板を消し終わり、教卓の上で作業をしていた。
(三浦先生のプライベートなんて全然興味ないんだけど……)
プリントをファイルに差し入れていた三浦と美月の目が合った。眼鏡の奥の瞳が美月を見ている。
狼狽した彼女は彼から目をそらした。呼吸が苦しい。心臓が激しく音を立てている。
「あのぅ、三浦先生ー」
絵理奈は顔を伏せる美月を置いてきぼりにして、階段教室になっている床の段差を降り始めた。
『何ですか?』
三浦の低い声が絵理奈に向けられる。絵理奈はにっこり笑って今美月がいる中央の席を指差した。
「私、志田絵理奈です。いつも真ん中のあの辺りの席に座ってるの」
大学では教師と学生の距離感は遠い。ゼミの担当教官や、学部の4年生、院生になれば教師が学生の顔と名前を一致させる機会はあるが、まだ学部の2年生で座席も自由席の講義を受けている美月達の顔と名前を一致できる教師は少ない。
特に臨時の非常勤講師の三浦が美月達の名前を把握しているとは思えない。案の定、三浦は学生名簿を開いた。
『ああ……志田さんね。どうしたの? 授業の質問?』
「違います。三浦先生についての質問です」
『俺についての質問? 何かな?』
三浦は驚く様子もなくファイリングの作業を再開した。美月は諦めの溜息をついて段差を降りる。
美月が履くバーガンディ色のショートブーツのヒールの音がやけに甲高く聴こえた。
「先生は何歳ですか?」
『37』
「ええー! 惜しかったぁ!」
絵理奈はこちらに来た美月と目を合わせた。美月は無言で絵理奈の横に並ぶ。
『惜しかったって俺の年齢のこと?』
「はい。私の予想では32から35歳の間かなぁって思っていたんです。じゃあ、彼女はいますか?」
『いないよ』
三浦の受け答えは淡々としている。喜怒哀楽の見えない口調だった。
「じゃあじゃあ、好きな女性のタイプは? 小柄がいいとか、細い子がいいとか、ロングヘアーがいいとか、巨乳が好きとか、あります?」
『容姿は人それぞれでいいと思う。でも、そうだね……強いて言えば真っ直ぐで芯が強い人かな』
顔を上げた三浦が美月を見て柔らかく微笑んだ。その微笑があまりにも穏やかで優しくて、これまで見たことのない三浦の表情に美月の心は掻き乱される。
「……ごめん、絵理奈。私、先に行くね」
「えっ? 美月行っちゃうの?」
扉に足を向ける美月を絵理奈が引き留めようとした時だ。
『浅丘美月さん』
三浦が美月の名を呼んだ。彼女は扉を開ける手を止めて振り返る。
(どうして……私が浅丘美月だって知ってるの?)
美月の記憶では三浦の前で絵理奈が美月の名を呼んだのはたった今、出ていく美月を引き留めた時だ。その直後に三浦が美月の名前を口にした。
美月は絵理奈のように三浦に名前を名乗っていない。
ギリシャ神話と人間心理学の受講生は70人弱。その中で女子学生は50人程度。
この講義の学生名簿には浅丘美月の名が載っていても、絵理奈と一緒にいる女子学生が“浅丘美月”だと三浦にわかるはずない。
それでも三浦は美月が“浅丘美月”だと知っていた。
『今日の小テストで浅丘さんが書いた心理分析、素晴らしい内容でしたよ。短時間であれだけの分析ができるのは優秀です』
「……ありがとうございます」
美月の表情が固いことなど三浦は気にもしていないらしい。
「先生、私のはどうでした?」
『志田さんは……もう少し文章を簡潔にまとめられると、もっとよくなりますね』
「簡潔ですかぁー? どこをどう簡潔にすればいいんですか?」
三浦に駆け寄った絵理奈はどさくさ紛れに彼の腕に触れる。三浦が絵理奈に説明をしていると、講義室に設置されたスピーカーから構内放送のメロディが流れた。
{学生の呼び出しです。総合文化学部2年の志田絵理奈さん。昼休み中に6号館、杉下の部屋まで来て下さい}
『志田さん、呼び出されてますよ』
「ああー! そうだった。杉下先生のところにレポート提出しないといけないんだ」
落胆する絵理奈は名残惜しげに掴んでいた三浦の腕を離した。美月は絵理奈に近寄った。
「早く行った方がいいよ。お昼ご飯、いつもの場所で比奈達と待ってるね」
「うん。行って参ります……。三浦先生、またお話してくださいね。美月、後でね!」
絵理奈は慌ただしく講義室を飛び出して行く。 男性アイドルの追っかけもしている絵理奈はミーハーで移り気。三浦に対しても男性アイドルを追いかける時と同じ感覚なのだろう。
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