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 加藤麻衣子は勤務する新宿区信濃町しなのまちにある啓徳大学病院を出て、外苑東通り沿いのオムライス専門店に入った。

今は午後7時15分、約束の時間を15分過ぎてしまった。


 約束の人物は奥の席で顔を伏せている。麻衣子は彼女の名を呼んだ。


「なぎさ、遅れてごめんね」

「ううん。仕事お疲れ様」


顔を上げたなぎさの目は真っ赤に充血していた。何事かと尋ねると、早河の助手を辞めたと一言だけ言って彼女はまたうつむいた。


 二人分の食事の注文を終えて前菜のサラダとスープを味わう時間になぎさが事の次第を語った。

今日は前々からなぎさと麻衣子は夕食の約束をしていたが、まさかこんな話を聞かされることになるとは麻衣子は思いもしなかった。


 なぎさが一通りの話しを終えたタイミングでオムライスが運ばれてくる。なぎさはホワイトソースのオムライス、麻衣子は定番のケチャップオムライスをチョイスした。


「なぎさも、早河さんがなぎさを危ない事に巻き込みたくないから辞めさせたってわかっているんでしょ?」


なぎさの口振りから早河の心理は読み取れた。早河はわざとなぎさに冷たくして突き放したのだ。

なぎさはオムライスを口に含んで咀嚼すると一度だけ頷いた。


「わかってる。だけど私はこの先どんなに危険な事が待っていても所長と一緒にいたかった。でもそれはお兄ちゃんや莉央のことは関係無しに、私が彼の側にいたいからってワガママなんだよね」

「早河さんはなぎさがお兄さんや莉央のことがあるから助手を辞めたくないと思っているのかな。なぎさの気持ちに気付いているってことはない?」


なぎさは苦笑いしてかぶりを振る。


「ないない。あの人、元刑事で探偵のくせに超鈍感なの」

「鈍感な男も困り者だねぇ。隼人はやとみたいに勘が鋭い男も厄介だけど」


麻衣子が笑うとつられてなぎさも笑った。


「木村さんからその後、莉央の話聞いた?」


 木村隼人の名前が出たことで、なぎさは気掛かりだった話を持ち出した。

なぎさと麻衣子の高校時代の友人である犯罪組織カオスのクイーン、寺沢莉央はある事件をきっかけに麻衣子の幼なじみの木村隼人に何度か接触している。


「夏に隼人から莉央の生い立ちを聞かれただけで、後は何も。莉央のことがあって隼人と美月ちゃんが喧嘩したことは聞いてるよ。その後は仲良くやってるみたい」

「そっか。……こんなこと、木村さんが好きだった麻衣子に聞くことじゃないけど、莉央って木村さんに恋したと思う?」


 なぎさに聞かれて麻衣子は小首を傾げた。麻衣子は卵に包まれたチキンライスを口に運び、考えながら言葉を紡ぐ。


「どうだろう。隼人と莉央が一緒にいるところを見ていないから何とも言えないなぁ。でも莉央が隼人を好きになることはあるかも」

「木村さんイケメンだもん。麻衣子が好きだった人って情報がなかったら、私だってポーッとなってたかもしれない。芸能人を見る感覚みたいなもの?」

「あははっ。あいつは無駄に顔はいいからね。顔だけじゃなくて、隼人って偏見がない人なの。その人の過去や立場がどうであれ、自分の目で見てその人を判断するって言うのかな。莉央の過去や立場なんて隼人には関係ないのよね」


幼なじみの麻衣子だからこその意見だろう。


「だけど私は美月ちゃんを傷付けて欲しくないから。隼人と莉央のことは応援できないし、莉央には……罪を償って欲しい」

「うん。私も同じ気持ち」


 莉央への想いは二人とも同じ。彼女が犯罪者となった今でも、変わらず大切な友人だと思っている。


「明日から京都だよね」

「こんな気が滅入った状態で行かなきゃいけないけど、仕事だからね。でも行きたくないなぁ」

「気晴らしにちょうどいいじゃない。早河さんのことは京都から戻ってから考えればいいし、楽しんで来なよ。出来上がった記事、読むの楽しみにしてる」


 食事を終えてレジで会計を済ませている時に店内に男が入ってきた。先に会計を終えてなぎさを待っていた麻衣子が男に気付いた。


神明しんめい先生。お疲れ様です」

『やぁ、加藤先生。お疲れ様です。奇遇ですね』


 神明しんめい大輔だいすけは啓徳大学病院の精神科に勤務する臨床心理士、麻衣子の同僚だ。


「先生も今日はこちらでお食事を?」

『ええ。ここのオムライス美味しいですよね。病院からも近いですし、気に入ってしまって。加藤先生はお帰りですか?』

「はい。私は友達と……」


会計を済ませたなぎさがやって来て、麻衣子と神明を交互に見る。神明は柔和な微笑でなぎさに会釈して、店員の案内で店の奥に進んだ。彼はひとりだった。


 店を出た二人は夜の外苑東通りに立ち尽くす。北方向に進めば四谷三丁目駅に、南方向に進めば麻衣子が利用するJR中央線の信濃町駅がある。


「さっきの人は神明先生。今年からうちのチームに入った非常勤の臨床心理士なの」

「感じのいい人だね。かっこいいし、モテそうな雰囲気」

「うん。同僚や患者さんにも人気があるよ。でも私はちょっと苦手」

「なんで?」

「なんとなく。きっと、いつも笑顔でイイ人過ぎるから苦手なのかも」


 夜風が冷たかった。まだ別れるには話足りない彼女達は近くのコンビニに避難する。コンビニは風避けにはちょうどよく、店内は暖かい。

化粧品や雑誌のコーナーを見て回りつつ二人は話を続けた。


「イイ人っていいと思うよ?」

「もちろん明らかに悪い人よりはいいよ。だけどさ、誰かにとってはイイ人でも自分にとっては悪い人の場合もあるでしょ?」

「ああ、それはなんとなくわかる」


 誰かにとっての“イイ人”は誰かにとっての“ワルイ人”かもしれない。あの人はイイ人だと誰もが評価する人を苦手だと感じてしまうのも悪いことではない。その逆もある。


コンビニに寄ると手ぶらでは出られない魔法でもあるようで、なぎさは明日の朝食用に手軽に食べられるパンとヨーグルトを、麻衣子はホットコーヒーを購入して二人は外苑東通りを北と南で別れた。

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