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 場所は六本木の路地裏。地下に向けて口を開く階段を降りればそこは異国の世界。

甘い花の香りに包まれたキャバレーのさらに奥、鉄の扉で封じられたその先に行ける者は限られている。


 鉄の扉の向こうには完全防音の個室が並び、利用する人々はそこをビジネスルームと呼ぶ。ビジネスルーム15号室では早河仁と武田健造財務大臣が難しい顔で向き合っていた。


『今はまだこちらの動きを悟られないよう慎重に事を進めよう。このUSBに入っている内容が事実ならば非常に厄介だからな』

『USBの中身、タケさんはどう思う?』


 早河はノートパソコンの画面を指差した。画面にはUSBから読み込んだデータが表示されていた。武田はテーブルに置かれたUSBメモリを持ち上げて指で弄んでいる。


『何せ情報の出所が問題だ。信用度は五分五分。この情報をどこまで信じるかで我々の今後の動きも決まる』

『俺もまだ完全にこのデータを信用したわけじゃねぇけど……画面見てるだけで気が滅入ってくる』


早河が画面をコツコツ、と規則的に叩く。彼の口からは溜息が漏れていた。


『じゃあ私は行くよ。これから会食なんだ』

『なんだかそうやってるとタケさん国会議員みたいだよな』

『阿呆。みたいじゃなく正真正銘の国会議員だ。さてはお前、国会中継見とらんな?』


けだるく立ち上がった武田は早河の肩を叩く。


『なぎちゃんにも宜しく伝えてくれ。たまには顔が見たいと武田が言っておったとな』

『はいはい』


 武田を見送ってビジネスルームにひとりになった早河は携帯電話のアドレス帳を開き、あ行の欄を表示した。


(とにかく今は地道に証拠固めしていくしかねぇか……)


武田が残した冷めた唐揚げを口に放り込み、咀嚼する。アドレス帳のあ行の次、か行の欄には香道なぎさの名前があった。


『なぎちゃんねぇ……』


 武田はなぎさを“なぎちゃん”の愛称で呼んでいる。なぎさにデレデレと鼻の下を伸ばす様は国会議員の威厳はなくただのセクハラ親父だが、武田なりになぎさを大切に思っているらしい。


(なぎさが京都に行くのは日曜だったよな……)


        *


 なぎさと金子は六本木のレストランで夕食を共にしていた。

出版業界で先輩の金子はいつもなぎさに的確なアドバイスをしてくれて頼りになる。話を聞くのも面白く、金子との会話が楽しかった。


(金子さんは優しいし、一緒にいて楽しくていい人だとは思う)


 金子を恋愛対象として好きになれたらきっとこんなに苦しい想いはしなかった。今からでも早河を諦めて金子を好きになれたら、早河を嫌いになれるなら……

でも無理だ。一度好きになってしまえば、嫌いになれない、諦められない。早河と出会ってしまえば、出会う前にはもう戻れない。


『そうそう、香道さんのもうひとつの職場って四谷よつや? うちの編集部の奴が四谷で香道さんをよく見かけるらしいんだ。家も確か四谷だったよね?』

「はい。職場も四谷です」

『前にもうひとつの仕事のことを聞いた時にワケありな感じだったから、今まで聞かなかったけど、実はけっこう気になってるんだよね』


 金子は両手をテーブルの上で組み、なぎさに微笑みかけた。


『好きな人のことをすべて知りたいと思ってしまうのは人間のサガだよね』


 初めて金子が積極的な好意の言葉を口にした。困惑するなぎさは食事の手を止めて彼を見据える。


「本当の私を知ればきっと金子さんは幻滅しますよ」

『どうだろうね。幻滅と言われても、香道さんは香道さんだから。むしろ本当の香道さんを知ってさらに好きになるかもしれない。……酒のせいかな、俺、さっきからさらりと告白してるね』


照れ笑いする金子の真摯で真っ直ぐな感情に対して誤魔化しやはぐらかすのは失礼だ。


「もうひとつの職場は探偵事務所です」

『香道さん探偵やってるの?』

「いえ、私は探偵の助手です。やることはほとんど事務仕事なんですけど……」


 彼女は探偵事務所で使っている早河の助手としての名刺を金子に差し出した。〈早河探偵事務所 助手〉と書かれたなぎさの名刺を金子はまじまじと見つめる。


『この探偵事務所で働く理由がワケありってこと?』

「……そうですね」


それ以上は語りたくなかったなぎさは視線を落とした。早河の助手となった経緯を話すのならば2年前の兄の死についても話さなければならないからだ。


 なぎさの様子を察した金子は名刺をジャケットの胸ポケットに入れてドリンクのメニュー表を開いた。


『ごめん。言いたくないことを言う必要はないからね、詮索はしないよ。俺はもう一杯飲むけど香道さんはどうする?』

「私はお酒はもう止めておきます。紅茶はありますか?」

『あるよ。ホット? アイス?』

「ホットの……ミルクティーで」

『OK』


 金子が手を上げてウェイターを呼んだ。ウェイターに自分の分のアルコールとなぎさのミルクティーを注文する金子の言動はスマートで洗練されている。


向けられる好意も不快ではない。彼みたいな人を愛せたら幸せだった?

けれど、早河よりも先に金子に出会っていたのに、なぎさが恋に落ちたのは早河だった。


 早河は兄の元婚約者の恵や両親にさえ、彼への恋心を隠さなければいけない相手だ。もし恵や両親に早河への恋心を知られてしまえば軽蔑される?

恵や両親に嫌われるのが怖い? 早河に嫌われるのが怖い?

恵や両親に対して後ろめたい?  ……違う。


 早河を好きになった“香道なぎさ”を軽蔑しているのは他ならぬなぎさ自身だ。彼女自身が自分に対して後ろめたさを感じている。


ただ恋をしただけなのに、また2年前の不倫と同じ、後ろめたい、人に言えない恋をしてしまった。

あんなに苦しい恋は二度としないと誓ったのに、また好きになって苦しい人を選んでしまった。

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