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 ランチを終えて恵と別れたなぎさは表参道駅から渋谷駅に向かい、渋谷から山手線に乗って恵比寿駅に向かった。


 電車に乗っている間、彼女は2年前の兄の葬儀の日の出来事を思い出していた。葬儀の際、参列した早河に恵は「秋彦を返せ」と泣きながら怒号を浴びせて彼の頬を叩いた。


 早河を責め立てた恵を誰も止められなかった。なぎさも当時は早河を恨み、彼を責めたこともある。

秋彦を殺したのは犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖だ。早河は本来なら責めて憎まれるべき貴嶋の身代わりとしてなぎさ達の怒りの矛先を向けられてしまった。


しかしそれは早河の苦しみを知らなかったからこそ出来たことだった。今、早河の一番近くにいるなぎさにはわかる。

早河は秋彦を死なせてしまったことを悔やみ、今も彼は自分を責め続けている。


 誰かを亡くして誰が一番悲しい、一番苦しい、そんなものはない。皆それぞれが自分の立場で悲しみ、傷付き、苦しんでいる。


 恵比寿駅を出て徒歩数分の場所になぎさが仕事の契約を結んでいる二葉書房のビルがある。文芸編集部のフロアでエレベーターを降り、フロアを見渡した。


『香道さん、こんにちは』


顔馴染みの男性編集者がなぎさを見つけて声をかけた。


「こんにちは。あの、金子さんは?」

『金子くんは……今は会議に出てるね。もう終わる頃だから先に会議室で待っていなよ。彼には伝えておくから』

「はい。ありがとうございます」


 第三会議室とシールの貼られた鍵を男性から受け取る。なぎさは灰色の絨毯が敷かれた廊下を進み、第三会議室の鍵を開けた。

今日は担当する連載コラムの打ち合わせだ。


会議室で10分程度待っていると扉が開いて担当編集者の金子拓哉が現れた。


『待たせてしまって申し訳ないね』

「いいえ。実は今回のコラムは金子さんに出すのが不安で、待っている間に少し手直ししていて……猶予ができて助かりました」

『おお、それはそれは。じゃあその手直しした力作を読ませてもらおう』


 金子とはフリーになる前の出版社勤めの時代から交流会等で顔を合わせていた。その頃のなぎさは出版業界で地位のある男と世間には言えない恋愛をしていたが、もちろん金子はその過去を知らない。


同じ業界で働くかつての不倫相手の名前は今でも耳にすることはある。幸いにも顔を合わせる機会はないが、向こうもフリーで物書きをするなぎさの名前をどこかで目にはしているだろう。


あの男の子供を身籠り、堕ろした。消せないのはその過去だけ。

あの男と過ごした時間もあの男に恋い焦がれた想いも今となっては過去のことだ。


 打ち合わせが終了すると金子はノートパソコンの画面をなぎさに見せた。


『これが去年の箱根の特集。今年は箱根じゃなくて京都なんだけど』


画面には二葉書房が奇数月に掲載している20代から30代向けのライフスタイルWebマガジンのページが載っていた。金子がなぎさに見せたのは去年のデータだ。

このWebマガジンには毎年、カップル企画が組まれていて去年の箱根は温泉めぐりデートの特集だった。


『社員じゃない香道さんにこんなこと頼み事してごめんね』

「いいですよ。私も楽しみにしているんです。仕事ですけど、遠出も久しぶりなので」


 明後日、8日の日曜日から10日火曜日までの3日間、なぎさは編集者の金子、金子の上司とカメラマンの四人でカップル旅行特集の取材で京都に赴く。


旅行デートの取材なので金子が彼氏役を務めるのだが、相手役の女性社員は身内に不幸が起きて故郷に帰省中だ。

彼女役の代役として白羽の矢が立ったのが二葉書房と契約しているなぎさだった。代役を頼まれたのは先週だ。


『急な話だったけどもうひとつの仕事は平気?』

「大丈夫です。上司には休みの許可はもらっています」


 早河には代役を頼まれた先週に9日と10日は休むと伝えてある。

元々、ライターの仕事を優先させることが早河の事務所で雇ってもらう条件だった。なぎさがライターの仕事で探偵事務所に出勤できなくても早河は怒らない。


『今夜、もし空いてるなら夕飯一緒にどうかな?』


 金子のなぎさを見る目付きが変わった。最近の金子は時折こういう熱っぽい眼差しをする。

編集者と契約ライター、友達同士、そんな関係性で相手を見ているのではない。


 男と女。眼差しからは彼の好意が感じられた。

金子の好意には去年の冬から薄々気付いていた。彼がストレートなアクションを起こすことはなく、たまに二人で打ち合わせがてらの食事に出掛けることもあるが、彼との間には何もない。


(告白されてはないし、だけどこのまま曖昧にはぐらかすのも金子さんに失礼だよね……)


どうしたらいいものか。彼女は逡巡しゅんじゅんの末、金子の誘いを受けた。

ライターとして編集者と良好な関係を築くのは必要不可欠。これも仕事の一貫だ、そう思うことにした。

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