第36話 ハレルヤ(後編)
ジークハルトの寝室に彼女と縁ある者が我先にと駆け込んできたとき、「時」の魔導士はファリスに半ば身体を支えられながら、窓の外を眺めていた。
何か小さな声で話し、二人で笑い声を立てていた。
その光景に眩暈を覚えたように立ち尽くしたアリエスに向かい、振り返った「時」の魔導士は優しいまなざしで唇を開いた。
「長い眠りをありがとう。悪かったね。わたしはここで『時』の魔導士としての役割を終えることを宣言する。そして、世界でただ一人の『時』の魔導士の代替わりによって、この時代の魔導士たちは大きな影響を受けるだろう。おそらく、ほとんどの魔導士の不老長寿が解除される」
全員の視線を受け止めて、柔らかく微笑む。
菫の瞳には透徹として澄み切った光を浮かべ、告げる。
「アリエスも該当する。いきなり死ぬわけじゃない。残りの時間を、ただ人間として年を取り、まっとうしていくだけだ」
エンデとジークハルトが、ちらりとファリスに視線を向けた。ファリスはどちらとも目を合わせることはなく、ただ「時」の魔導士がその場に崩れ落ちずに立つことにだけ意識を割いているようだった。
「もう大丈夫だ。自分で」
「時」は短い言葉とともに、ファリスの支える手をそっと押しのけた。
「アリエス。聞いているか?」
「ああ。大丈夫だ、聞いている……。死なない限り、あと数十年はあるのか。少し、長いかな」
転ぶのを恐れるかのように、ゆっくりとした足運びで「時」はアリエスの前まで歩を進めた。
「本当に? もしかしたらあっという間かもしれないぞ」
「どうかな。自分のままで生きていられるように、心を強く持たないと。俺が何かやらかしそうなときは、その辺の剣を持った奴にひと思いにやられてしまおう」
目が合ったエンデは、無言のままアリエスを睨みつける。
少女の見目の魔導士は、アリエスの顔を見上げて、やや長い沈黙の後に口火を切った。
「ちなみに、わたしもだ」
「うん……?」
「『時』の魔導士とあろう者が、自分の中の時を止めることはもうできないようだ。ここからはわたしも不老長寿とは無縁に生きていくことになる。参ったな、『時』に目覚める前のわたしは魔導士としては極め付けの劣等生だった覚えがある。あの状態に戻るというのなら、魔導士は廃業だな」
唇には笑みを浮かべている。
その言葉の意味が浸透するまで、一同は少しの時間を要した。
アリエスが、声を震わせて言った。
「それはつまり」
「別にたいした話ではない。残りの時間を、ただ人間として年を取り、まっとうしていくというだけだ。アリエスも、わたしも」
「死なないのか……!?」
おさえきれない喜びを爆発させたアリエスに対し、「時」であった魔導士はいたずらっぽく笑った。
「死ぬよ。いずれ。ただ、今は死なない。当代の『時』の魔法はこの身を去り、世界のどこかに新たに現れた『時』の魔導士へと引き継がれた。過負荷の魔力がなければ、今までのように深い眠りに落ちることもない。体調が回復したら、子どもだって生めるかも」
全然なんでもないことのように。彼女はその言葉を口にして。
それはそれは妙なる静けさを呼んだ。
「子ども……!?」
皆を代表するかのように叫んだアリエスが詰め寄る。少女は頷いて、まるでたった今思いついたかのように言った。
「変かな。身体の仕組みでいえば問題ないと思うんだけど。魔導士って基本人間だし。そういえば、アリエスはその辺どうなの? 子どもとか、出来そうなの?」
「……!? 俺!?」
何を聞かれたのか、咄嗟に理解の範疇を超えたかのように聞き返すアリエス。
「あとこれは……。誠に申し上げにくいことなのではありますが」
自分の投げかけた発言の衝撃を回収しないまま、不意に少女は恐ろしく気まずそうな顔をして、やけに丁寧な口調になった。
「何か?」
誰かが水を向けねばと悟ったジークハルトが、すっと割って入る。
少女は気まずい顔のまま、ジークハルトを見た。そして、泣き笑いのような表情を浮かべて言った。
「わたしの中には『エリス』の記憶もあって……。おそらく、次に目を覚まして完全に『時』の魔導士としての力と記憶を失したときには、この一年の『エリス』としての時間がこの身体に宿るすべてとなるのではないかと……」
「つまり一年と、海辺の王宮で過ごした数日が?」
エンデの確認に、ひるんだような、追い詰められたような目をして少女は小さく頷いた。エンデは、それを目にした者の心を奪わずにはいられない、甘美な蕩けるような笑みを浮かべて言った。
「僥倖です」
少女はとえいば、その笑みを直視できないとばかりに目を逸らしてしまう。
しかし、まだ言うべきことがあったと気を取り直したのか、少女は今一度、向き直る。
エンデとは対照的に、疑念もしくは怨念に満ちた顔をしているアリエスに、意味があるのかないのか、何度も小さく頷いてみせた。
「なんと言って良いかわからないのだが、『エリス』はわたしであってわたしではなく……。何を考えるかはわたしにも予測が立たないところがある。わたしはアリエスにはとても世話になってきた恩はあるし、アリエスが望むならアリエスの子を産んでもいいと思っていたのだが」
いたのだが。
不吉さしかない響きだった。
「この先エリスが何を考えるかはわたしにはわからないし、そういった意味ではアリエスのアドバンテージは一年分しか残せないようなんだ。百年単位で世話になっておきながら、申し訳ない。いや、勘違いならそれはそれで。アリエスの子を産んでもいいというのはわたしの勝手な考えであって、アリエスがどう考えていたかは聞いたことがないし。だから杞憂ならそれはそれでいいんだけど」
「聞いたことが、ない、だと……?」
少女の早口を断ち切ったアリエスの確認には隠し切れない不穏さが漂っていた。横に立っていたエンデがすかさず腕を伸ばして肩を抱いた。
「あれだ、ああいうひとには、かなり直に言わないと伝わらないんだよ」
同じ危機感を抱いたかのように、足早に歩み寄ったファリスが、反対側から耳元に唇を寄せて囁いた。
「好きだ、とかじゃだめですよ。わたしも好き、で終わりますよあの手の人。ちゃんと抱きたいと言わないと」
涼やかな声に追い詰められて、アリエスは掌で額をおさえる。
「『時』はそれで良いんですか?」
どんな表情も見逃すまいと見つめていたジークハルトが、大きくはなくともよく通る声で聞いた。
「良いも悪いも、忘れてしまうんだ。生まれ変わると言ってもいい。その後の人生を今のわたしがどう規定しようと、『エリス』がそれを歩むかはわからない。自由なんだ」
「わかりました。では、俺があなたを奪うことがあってもいいわけだ」
「それは未知数なので、必ずしも否定はしない」
「承知しました」
とても丁寧に言いつつ、瞳を細めて少女を見つめるジークハルトの腕に、ディアナがしがみついた。
「ジークハルト陛下はわたくしと結婚するんですけどねーっ」
「姫。卑怯を承知で言うが。俺でなくとも、誰かはいずれ余るぞ。どうする、アリエスが余ったら。絶対俺を選んだことを後悔するぞ」
「……真顔でひどいこと言いますけど……。たしかに、後悔は……」
一瞬でほだされて、いや気を強く持とうと思ったディアナであったが、打ちひしがれたアリエスを見ると確かに諦めきれない痛みが胸で疼くのも事実であり。
してやったりという少年のような笑みを浮かべているジークハルトを、追い詰めきれずに軽く睨みつけるに終わった。今はまだ、と。
「あ、そしてですね、眠い。寝そうです」
少女はなんの前触れもなく唐突に宣言をした。
「な、おい、ちょっと待て! そこで寝るな!」
はっと我に返ったアリエスが、男たちを振り切って少女に向かい手を伸ばす。
少女は、菫色の瞳にありったけの親愛の情と一筋の寂しさを浮かべて微笑んだ。
「もう無理みたい。ごめんね、アリエス。いつもわたしを忘れないでくれて、ありがとう。おやすみ」
言いながら、アリエスの腕の中へと飛び込む。笑顔に見とれてしまいつつも、腕は習性で受け止め慣れた彼女の華奢な身体を受け止めていて、しっかりと抱きしめてからアリエスは叫んだ。
「頼むからいま、寝るな!! 起きろー!!」
常に恨み言を口にせず「時」の魔導士を献身的に支えてきた大魔導士アリエスが、自分の命より何より大切な彼女に、初めて恨み言を叩きつけた瞬間だった。
* * *
「時間ならあるから、焦ることはないと思っていた。だが、今後すべての恋敵に対して、毅然として挑む必要が出て来るわけか……」
再び眠りについてしまった少女の目覚めを待つ間、アリエスはしみじみとそう言った。
今度はその時を逃さないと言わんばかりに、眠る少女のそばに張り付いている。
何せ大魔導士は、戴冠式に合わせた慶賀について、国元との打ち合わせでにわかに忙しくなったディアナよりも暇だったのだ。
「今までも相当苦労なさったのでは?」
仕事の合間に花束を手にして顔を出したファリスが、遠慮のない問いかけをした。
「今回は、最低最悪に相手が悪い気がする。お前にアレとアレだろ。よりにもよって顔が良いのばっかりだ。なんの呪いだ、クソ」
「僕も数に入れてくれるんですね。嬉しいな。張り切ってしまおう」
「来るな」
アリエスは手で追い払う仕草をしつつ、つーんと顔を逸らしてそっぽを向いた。
だが、ふと視線だけファリスに投げかけ、口を開いた。
「『時』の魔導士は、莫大な魔力を持つが、それゆえに様々な制約を併せ持った難儀な存在で……。たとえば、使える魔法の種類が極端に少ない特化型だ。強いのか弱いのか今でもわからん。しかも、次の百年で、魔導士の数は今以上に減っていき、多くの知識も失われるだろう。魔導士として生きるにはますます厳しい時代になる。当代の『時』は、あの性格だからある意味やってこれたが」
「それはきっと買いかぶりですね。性格だけじゃない、あなたがついていたから彼女は生き延びたんだと思います」
「否定はしない」
そこで、アリエスは気遣わしげな目でファリスを見る。
気づいていないはずはないだろうに、ファリスは持参した花束を自ら陶器の花瓶に生けて、葉先の流れを指で整えていた。
終わると、今度は部屋の隅に置かれた茶器を確認し、盆に一客のカップをのせて戻ってくる。それをアリエスに差し出したので、自分は飲むつもりはないようだった。
アリエスが茶を一口飲んだところで、前置きもなくファリスが言った。
「エリスの子どもの話ですが」
お茶を噴出しかけたアリエスに構わず、にっこりと笑って、続けた。
「可愛い女の子ですよ。楽しみだな」
一瞬で真顔になったアリエスに軽く礼をして「まだ仕事がありますので」と言ってその場を辞する。
立ち去るその後ろ姿を見ながら、アリエスは物憂げな溜息をついた。
「父親は誰だよ、言えよそこ」
ぎりぎり聞こえたそのぼやきに、ファリスは振り返らぬまま心の裡で呟いた。
(そして僕はきっと、その子と長い旅をします。あなたたちのように。同じではないけれど、どこか似ている──)
* * *
少女の目覚めを待つ間、アリエスはふと寝台横の小卓に並べられた貝の箱と硝子の小瓶と魔法の書に気付いた。
「魔法の書。あれはただの紙束を製本しただけど、あいつ真面目に書いていたのかな」
エリスが聞いたら涙目で怒りそうなことを呟き、手を伸ばして頁を繰る。
そこには、離れて過ごしたほんの数日が、実に簡単に書き記してあった。何を書いたのか、塗りつぶした箇所まであった。
「時」の魔導士の話によれば、次に目覚めるのは「エリス」であり、ならばそこに綴られた日々は彼女の口から聞くことは可能なはず。
そうは思いつつも、ある予感に突き動かされるように、アリエスは途中からは何も書いていない頁を一枚一枚めくり続けた。
それは、なんでもない頁に突然現れた。
【アリエスはわたしのもので、わたしはアリエスのものだった。二人で生きたあの日々を思い出すことはもうないかもしれないけれど、誇りに思う。わたしの一番の宝物だ。わたしと一緒に生きてくれてありがとう。いつもいつも、わたしを覚えていてくれて、必ず取り戻してくれたことを、心より感謝する。誰よりも大切なアリエス
□□□□ 】
そこにはエリスではない時を生きた彼女の、今はアリエスしか知らない名前が、記されていた。
<了>
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