第3話 最初の男?
「どこの姫かは存じ上げませんが、海水浴はまだ早いですよ」
歯切れの良い、瑞々しい声だった。
向けられた瞳は、声の印象そのままの鮮やかな新緑の色。
(あ、きれい)
もうすでに懐かしい、故郷の森のようなまなざし。逸らせなくなってのぞきこむと、その人は困ったように笑みを浮かべてから、周囲に視線を向けた。
「姫君はどこからいらっしゃったのですか。供の一人も見当たらないようですが」
エリスが脱ぎ捨てたブーツを見つけたらしく、歩き出す。
肩に抱え直されたせいで、触れあった部分が、ドレスからしみだした海水に濡れていく。気付いて、エリスは慌てて腕をつっぱり、逃れようとした。
「すみません、わたし、ものすごく濡れてて……、下ります下ります!」
「これはあなたの持ち物ですね」
無造作というほど乱暴ではないが、荷物のようにエリスを片腕で抱えて、落ちていたブーツと靴下と魔法の書に手を伸ばす。瞬間的に、エリスは猛烈に焦った。
「あの、ほんっとーに下ります!」
ジタバタと足を動かし、罪のないその人の頭をぐいぐいと手で押して暴れると、砂の上にゆっくりと下ろしてくれた。
「裸足のようですが……」
躊躇いがちに言われて、エリスは「大丈夫です!」と目いっぱい笑ってみせた。
改めて向き合ったその人は、若木のようにすらりとした青年だった。
日に灼けた顔は、おそらく童顔と呼ばれる部類だろう。年齢はよくわからないが、明るい笑みを湛えた瞳と甘い顔だちのせいもあり、小動物めいた印象がある。シャツにズボンといった装飾のない服装をしており、それが姿勢のうつくしさを際立たせていた。腰には剣を帯びていたが、よく見ると子どもが練習に使うような木剣だった。
入隊したての少年兵と言うほど幼くはなさそうだが、飄々として威圧感もない。朝の稽古を抜け出してきた駆け出しの訓練兵、といった風情だ。
(座標は適当だけど、目標にはなるべく近づけるって言ってたもんね……)
大魔導士の魔法の精度は確かだ。おそらくここは王宮近くの浜辺なのだろう。
何はともあれ、エリスは大事な魔法の書を拾い上げる。濡らすわけにはいかないので、ドレスに触れぬように右手に携える。
青年は、腰をかがめてブーツと靴下を拾い上げた。
「この靴で、ここまで歩いてきたんですか?」
耳に心地よい、はきはきした声で問われて、エリスはつい返事をしそうになった。
その次の瞬間、喉から声が消え失せた。
「…………、!」
息苦しさはない。ただ、声が出なかった。
「喉……? でも、さっきは喋れましたよね」
青年はわずかに眉を寄せ、表情をくもらせる。
(はい)
エリスは喉を左手で喉をおさえたまま、心の中で返事をした。
大魔導士アリエスの呪い──『素性に関することにこたえようとすると、声が出なくなる』が、発動している。
弟子の性格をよくよく把握した師匠らしい作戦である。
『記憶喪失の姫君だ。身なりがそれなりなら、いきなり無碍にされることはないはずだ。おそらく身元を突き止めるまでは客人として扱われるだろう』
このドレスを用意した理由を、アリエスはそのように説明していた。
ただ、エリスの場合失言が怖い。
その為に、声を奪われた。
「どこか、痛いところはありますか。身体に違和感とか」
「……それは、大丈夫です」
差しさわりのない会話のせいか、声が戻った。
「喉はどうですか」
「どう……なんでしょう……」
どういう判定で、喋れなくなるのか、エリスもまだよくわかってはいない。自然と、警戒して恐る恐る話すことになる。
青年はわずかに首を傾げて、口を開いた。
「姫君、お名前をうかがっても? 私はあなたを、しかるべきところまで送り届ける必要があると考えています」
「名前は、エリス……」
以降、声が出なかった。
喉をおさえたまま、深刻な顔をして俯いたエリスの態度をどう受け取ったのか。
「エリス様……。さて。ちょっと思いあたらないですね」
無理に聞き出すことはせず、考えるように視線を空に向ける。
「すみません。わたし……わたしは……」
どうにか演技を見破られてはならぬと、エリスは言葉を探す。
気持ちを落ち着かせるために、アリエスのふてぶてしい顔を目裏に描く。
『記憶喪失なら得意だろ? 一年前のことを思い出せばいい』
一年前。
アリエスのもとに弟子入りしたときのことだ。
エリスにはそれ以前の記憶がない。本当のところは、正確な年齢もわからない。
故国の深い森の中を、気が付いたらさまよっていたのだ。
身よりもなく、どこの誰かもわからないエリスを、偶然出会ったアリエスが引き取って弟子とした。
その時のことは、つとめて思い出さないで来た。
自分が何者かわからないという事実に、たまらなく不安になるから。
(でも、今は、使える)
「わたしは……どこから来たのでしょう。ここは……」
初めてアリエスに話しかけられた瞬間から始まる、記憶。
どこから来て、どこへ向かっていたのかも思い出せない。ただ、気が付いたら目の前にアリエスが立っていて、戸惑ったような声で言われたのだ。
「記憶がないのですか……?」
青年の言葉と、思い出の中のアリエスの声が重なる。
あの時は何と答えただろう?
「記憶……」
心配そうな顔をしている青年を見上げて、エリスはそれだけ言った。
(思い出せない……。わたしはあの時、お師匠様とどんな会話をしたんだろう)
たった一年前のことなのに。
眉根を寄せ、真剣に追いかけているのに、どうしてもたどり着けない。
エリスの様子を見ていた青年は、小さく吐息した。
「この浜辺に一人でいて、海に入って行くのを見たときは、何事かと思いましたが。どうやらあなたは何かお困りのようですね。そうだな……。難破船などがないか、その辺から調べてみましょう」
言葉を詰まらせるエリスを追及するのは得策ではないと判断を下したようであった。
お困りのようですね、と労りの一言を添えて。
(こんなに若いのに、ずいぶんしっかりした人だなぁ……)
ともすると、エリスとさほど年齢が離れていないようにも見えるのだ。まさか大魔導士のように外見詐欺の人がごろごろいるとも思われないし。
「ありがとうございます」
エリスは思わず緑の瞳を見つめて礼を言った。
その直後、身体がぶるりと震えて、止める間もなくくしゃみが二度、三度出た。
「冷えてしまいましたね。今何も持っていないので……、とりあえず人のいるところまでお連れします。あなたには着替えが必要だ」
青年は、そういうなり「失礼」と言ってエリスを片腕で抱き上げた。
「えっと……あのっ!?」
「裸足で歩かせるわけにはいきません。少しだけ我慢してください」
もう片腕には、エリスのブーツを持っている。
「す……、すごい力ですね」
人一人やすやすと抱え上げて、動じた様子もなく歩き出した青年に、エリスは正直な感想を告げる。何しろ、片腕で支えられているとは思えない安定感だ。
間近な位置から見下ろして、青年は悪戯っぽく笑った。
「結構、力はあるんです。でも、落としたくないので暴れないでくださいね」
「その節はすみません」
先程の自分の暴挙を思い出して、エリスは俯いてしまう。あの時も、暴れるエリスを落とさなかったのだから、見上げた責任感だ。
「その節は、ということは……。私と会ってからの記憶は、失われていないということですね」
「え?」
耳に心地よい爽やかな声で言われて、エリスはつい顔を上げる。
まともに目が合ってしまった。
青年は、にこりと微笑んで言った。
「私の名前はジークハルトです。あなたが目にした最初の男として、どうぞお見知りおきください」
どこか冗談めかした挨拶に、エリスは中途半端な笑みを浮かべて小さく頷いてみせた。
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