3-5

 しばらくロビーで蓮と雑談を交わし、矢野はエレベーターで五階に上がる。五階には撮影チームの朝食会場となっている貸切の宴会場がある。

彼は黒縁の伊達眼鏡をかけた。これが矢野のON、OFFの切り替えスイッチ。


(この仕事モードの真面目な俺を見れば真紀ちゃんも俺に落ちてくれるんだけどなぁ)


 座敷の宴会場にはすでにADの平井透がいた。平井は用意された朝食の数のチェックをしている。

矢野は座敷の上がり口から平井に声をかけた。


『おはようございます。確か……一ノ瀬さんの付き人の……』

『矢野です。今日もよろしくお願いします』


矢野と平井は互いに会釈し合う。平井は作業に戻り、矢野は靴を脱いで座敷に上がった。


 座敷には長机が並べられ、回りに座布団が配置されていた。机には役者とスタッフのネームプレートがあった。誰がどこの席に座るか厳密に決められている。

朝食は二段の重箱に詰められて用意されている。玲夏の席の重箱に見た目には不審な点はない。本音は中身を開けて料理に妙な細工がないか確認したいが、平井がいるこの場ではそこまでは出来ない。

湯呑みは各人の席に下に伏せて置かれていた。用意されたポットは3つ、急須は各テーブルに二つ。


(ポットと急須は共有、もし玲夏ちゃんに毒を盛るとしたら狙うのは湯呑みか、割り箸か……)


平井の見ていない隙に玲夏の湯呑みを素早くチェックした。何かが湯呑みに塗られている痕跡は見当たらない。

セットで置かれた割り箸にも異常はなかった。ひとまず安堵して湯呑みと割り箸を元の位置に戻す。


 玲夏に届けられたあの手紙は早河が預かっている。矢野も現物を目にした。

手紙には〈殺しにいく〉と殺人予告も同然の脅しが書いてあった。差出人は本当に玲夏を殺すつもりなのか。


(真紀ちゃんに聞いた女物の整髪料と犬の毛も気になる。あと速水杏里の不倫スキャンダルか……。心証として真っ黒なのは速水杏里だよな)


 平井の行動をさりげなく監視するために上がりがまちに立っていた矢野は肩を軽く叩かれて振り向いた。

見慣れたなぎさの笑顔があり、張り詰めていた矢野の神経が和らぐ。


「おはようございます」

『おはよう。よく眠れた?』

「あんまり……。なかなか寝付けなくて」


なぎさは目頭を揉んで苦笑いしている。あくびを噛み殺す彼女は言葉通り寝不足気味に見えた。


『今日はマネージャーの山本さんも来るから少し楽になるかな。無理しないようにね』

「はい」

『お二人は前々からのお知り合いですか?ずいぶんと親しげに話していらっしゃいますよね』


矢野となぎさの様子を見ていた平井が話に割り込んできた。


『ええ、まぁ。本庄さんと蓮さんは同じ所属事務所の親しい間柄ですから、付き人同士の僕達も何かと交流があるんです』


当たり障りない回答で平井の詮索をやり過ごす。人懐っこい笑顔を浮かべるこの男が容疑者のひとりであることを忘れてはいけない。


 朝食時間の午前7時になると役者やスタッフが宴会場になだれ込んでくる。上座に主演の玲夏、蓮、監督、助監督の席があり、付き人のなぎさと矢野は玲夏と蓮の隣に席が用意されていた。


加賀見泰彦、香月真由、速水杏里、北澤愁夜、沢木乃愛も芸歴順に上座に並び、ADの平井は下座に席があった。

他の役者やスタッフ、ヘアメイクの西森結衣も指定の席に着く。


 ――和やかな朝食の裏で陰謀は実行された。


『……ぅ……ぐぅ……』


 呻き声が下座から聞こえてきた。下座から上座まで伝わる動揺の波、何かが畳に倒れる音と女性の甲高い悲鳴が上がった。


「ちょっとどうしたの?」

『おい、大丈夫か?』

『なんだ? 何があった?』

「誰か倒れてるっ!」


即座に席を立ったのは矢野だった。矢野は人と人の間のわずかな隙間をすり抜けて下座に駆け寄る。末席に男が倒れていた。


『おい……』

『触らないで!』


 男性スタッフが倒れた男に触れようとするのを矢野の厳しい声が制した。

男は畳に仰向けになり、だらしなく開けた口からは舌が出ている。喉にはもがき苦しんでかきむしった引っ掻き傷があった。

脈を確かめるまでもない。は死んでいた。


『全員そのまま動かないで。食べ物、飲み物にも手をつけずにじっとしていてください』


 矢野の気迫に圧倒された一同は無言で彼の行動を見守る。矢野は死体の周りの状況を確認した。

重箱の朝食にはほとんど手がつけられていない。割り箸も未使用だ。

湯呑みが畳の上に転がり、溢れた緑茶が畳と座布団に染み込んでいた。


『……警察を呼んでください。ADの平井さんが亡くなりました』


 矢野の一言に会場中がどよめきに包まれた。


『落ち着いて。警察が来るまでは誰も平井さんには触れないように。それとここから出ないでください。部屋の物にも触れないようにお願いします。……なぎさちゃん』


大声でなぎさを呼んだ。上座にいたなぎさが立ち上がる。


『フロントに行って事情を説明して、警察の手配をお願い』

「はい!」


 宴会場を飛び出すなぎさの背中を見送り、矢野はこの場に集まる人々を一瞥した。


平井が毒殺されたのは間違いない。この状況で動ける人間、は自分となぎさだけだ。

現状では本庄玲夏も一ノ瀬蓮も、宴会場にいる全員が容疑者だ。


 警察の初動捜査を心得ている矢野は現場の保存を徹底した。頼まれても死体に近付く人間はいないだろうが、万が一のこともある。

顔面蒼白の役者やスタッフを見張りつつ、絶命した平井を見下ろす。


(どうして平井さんが? 玲夏ちゃんの例の手紙の件と関係あるのか……さっきの平井さんの様子だと自殺ってことはそうだな)


 共有のポットや急須を使った他の者達には異常がない。毒物はポットの中のお湯や急須の緑茶ではなく、“平井の湯呑み”に仕込まれていたと考えられる。


 矢野はある人物に注目した。うつむいて表情はわからないが、その人の肩は小刻みに震えている。

警察を待つ間、矢野は震える肩の持ち主、速水杏里から目を離さないでいた。

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