3-4
――東京・四谷――
ローテーブルに転がる腕時計が午前6時を刻んでいる。栄養ドリンクの空き瓶の隣には吸殻が山盛りになったアルミの灰皿。
ベッドに突っ伏していた早河は薄く目を開けた。何やら耳障りなバイブレーションが聞こえる。
これは携帯電話の着信だ。帰宅してから携帯をどこに置いたのか記憶がない。ベッドに伏せたまま彼はサイドテーブルに腕を伸ばした。
硬い感触を掴むと小刻みな振動が手に伝わる。マッサージチェアの振動は気持ちが良いと感じるが携帯電話の振動はどうしてこうも気持ちが悪いのだろう。
『……もしも……』
{ハロー! マイダーリンーッ!}
携帯から聞こえてきた矢野一輝の声に早河は携帯を耳から数センチ離した。
『……朝からうるせぇなぁ』
{朝は元気におはようございまーすって学校の先生が言いませんでした?}
『お前の挨拶は元気じゃなくてうるさい』
{ダーリンはつれないなぁ。風邪の具合はどうですかー?}
『別に。良くも悪くもなってねぇよ』
寝返りを打って仰向けになる。こめかみがズキズキと痛んだ。
正直に言えば悪化している。薬を飲んで誤魔化して、昨夜はメルシーで飲酒した。
メルシーの上等な酒で悪酔いするとは思えない。これは風邪の頭痛だ。
『そっちの状況は?』
{こっちも良くも悪くも……ですかねぇ。今のところは何も起きていません。なぎさちゃんもよく動いてくれています}
『そうか。……玲夏は?』
{撮影に集中してますよー。例の手紙や事務所への嫌がらせのことも抱えてるのにそんなこと感じさせない堂々とした芝居でさっすがプロの女優ですよ。昨日は玲夏ちゃんの濃厚キスシーンまで見れましたからね}
電話の向こうで矢野のにやけた顔が想像つく。相手がわざわざ言わなくてもいいことまで言うときはこちらの反応を試している時だ。
『……玲夏となぎさに何もないならそれでいい』
{キスシーンはやっぱり今でも気にします? 玲夏ちゃんと付き合ってる時はそんな素振り見せませんでしたけど、実はこっそり妬いてたとか?}
『アホ。早く容疑者達の情報報告しろ』
{本当は妬いてるくせに}
『何か言ったか?』
{いえ、なんでもないでーす。じゃあ現段階の報告いきますよー}
早河は起き上がり、手帳に矢野の情報を書き留めた。現時点の情報では脅迫の手紙の差出人も嫌がらせの犯人も絞れない。これではなぎさが頭を悩ませるわけだ。
(今はまだ、何も起きていないが……)
何かが起きる。そう思えてならなかった。
*
──神戸──
早河への電話連絡を終えた矢野は自分の部屋、605号室を出た。他の撮影スタッフは七階から八階に部屋が集中しているが、飛び入りで参加の矢野は六階の部屋しか空いている部屋がとれなかった。
このホテルの構造は一階が結婚式のチャペルと駐車場、二階は旅客ターミナル、三階にフロントとロビーがあり、客室は六階から十三階。最上階の十四階にはラウンジがある。
まずエレベーターで三階に降りた。ホテルのセキュリティ面をもう一度チェックしておきたい。
更紗模様のカーペットが敷かれたロビーには噴水があり、東洋的なインテリアが配置されている。五階まである吹き抜けが開放的だ。
ソファーに一ノ瀬蓮が座っていた。優雅に脚を組む様は絵になる。
『おお、一輝。おはよ』
『蓮さん、おはようございます。早いですね』
『撮影期間はいつもこうなんだ。てっぺん越えても朝の5時には目が覚めちまう』
蓮とは昨日が初対面だが、意外にも早くに打ち解けた。蓮の人当たりの良さは社交性に自信のある矢野を上回る。実力派と評判の名俳優はおおらかで謙虚な人物だった。
『なぁ、一輝となぎさちゃんの上司ってどんな奴?』
『上司? ああ、早河さんのことですか?』
早河のことを上司と言われてもピンとこない。なぎさにとって早河は上司でも、自分と早河の関係は上司と部下とは少し毛色が違っていた。
『早河さんは朝が苦手で煙草とコーヒーがあれば生きていける変な人ですよ』
『ははっ。なんだよそれ』
『あの人、朝はまじに不機嫌なんですよ。母親に無理やり起こされてふて腐れてる子供みたいな』
矢野は蓮の向かいに腰を降ろす。
他のソファーには朝のコーヒーを楽しむ老夫婦がいるだけで、ホテルスタッフ以外にロビーを行き交う者はいない。蓮もコーヒーを飲んでいた。
撮影チームの朝食は7時に五階の宴会場となっている。一般の宿泊客は四階のレストランが朝食会場となっているため、人の流れは四階に向く。ロビーに人がまばらなのも必然だろう。
『なんでそいつと玲夏が別れたか聞いてる?』
『大体のことは。玲夏ちゃんと別れた当時は早河さんも仕事で色々あって、恋愛どころじゃなかったんでしょうね』
『ふーん。じゃあ嫌いになって別れたわけじゃないのか』
蓮の冴えない表情の意味に気付いても、矢野は気付かないフリをしてそっと秘密に蓋をした。
早河と玲夏が実際にはどんな別れ話をしたのか矢野は知らない。
男同士であっても長年の友人であっても、本人が語りたくないことは無理に聞き出さない。それが矢野と早河の関係だった。
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