第三章 豪雨、すなわち嫉妬
3-1
監督の撮影終了の合図が響き、柚希は本庄玲夏へ、恭吾は一ノ瀬蓮に戻る。傘を差したなぎさはバスタオルを二枚持って玲夏と蓮に駆け寄った。
初めて目の前で見たキスシーンが目に焼き付いて離れない。タオルを渡す時も玲夏と蓮の顔を見るのが恥ずかしかった。キスシーンは演じる本人達よりも見ているこちらの方が恥ずかしくなる。
『二人ともお疲れさん。今のシーン良かったよ』
監督のオーナーサインが出て、玲夏と蓮はタオルで髪や顔を拭きながら安堵の溜息をつく。しばらくカメラチェックで役者は待機時間だ。なぎさと矢野は玲夏達とロケバスに移動した。
『生のキスシーンなんて初めて見ましたけど、やっぱり二人とも役者ですねぇ』
『これが仕事だからな』
感心して頷く矢野が蓮にペットボトルの水を渡す。シリアスな演技で見せていた恭吾の面影は跡形もなく、蓮はヘラヘラと笑ってペットボトルの水を飲み干した。
これが水も滴るいい男と言うべきか、濡れた前髪を掻き上げて水を飲む蓮の男らしい喉仏と横顔が
なぎさの視線に気づいた蓮が意地悪く微笑んだ。
『なぎさちゃんどうしたー? そんなポォーっとした顔で俺を見つめて。さっきのキスシーンで俺にクラクラしちゃった?』
「えっ……違いますっ……!」
図星だけになぎさの顔は真っ赤に染まった。元々ファンであった一ノ瀬蓮のキスシーンをすぐ側で見てしまったのだ。どうしたって蓮の前で普通ではいられない。
「れーん。あんまりなぎさちゃんをからかわないの。それとさっきのシーンはあそこまでやらなくてもよかったんじゃないの?」
玲夏はヘアメイクの西森結衣に髪の毛をタオルドライしてもらっている。
『あれは監督の指示。恭吾と柚希の別れのキスだから熱烈にやれってさ。そんな怒るなよー』
「あんた、ちょっと楽しんでいたでしょ?」
『んー、まぁちょこっとな?』
この二人が数分前まで濃厚なキスを交わしていた男と女だとは思えない。切り替えの早さもさすがプロだ。
『ベッドシーンは前貼りって言うんですか? あれを付けるんですよね』
『そうそう。大事なとこは相手やスタッフにも見せられないからな。俳優も女優も前貼りやって、微妙に見えないアングルで撮影してる』
『あれって男は生理現象ですからどうしても反応しちゃいません?』
『俺はそれで撮影中断させたことあるぞ。だから相手役が好みの女優だと困るんだよな』
矢野と蓮の男子高校生さながらのお喋りに玲夏が呆れた顔で相槌を打っていた。
東京に帰ってからは玲夏と蓮にはベッドシーンが予定されている。柚希と恭吾のたった一夜の例の場面だ。
(恋人でもない人とキスしたり、演技とは言っても裸同然の姿で男の人と絡んだりできるのって玲夏さんは本当に凄い女優さんなんだなぁ)
ロケバスの外は豪雨だ。雨粒が窓に強く打ち付けている。
黎明の雨のラストシーンの舞台装置として欠かせないのが雨の描写。雨のシーンでは通常は人工的に雨を降らせるが、昼間に玲夏が予想した通り、まるでこのラストシーンのために用意されたような激しい雨を天が降らせてくれた。
最高の役者達に最高の舞台を天がプレゼントしてくれたのかもしれない。
原作のエピローグでは恭吾の逮捕から数ヶ月後に柚希は女の子を出産したことが語られている。
彼女は誰にも娘の父親の名前を明かさなかった。柚希の叔父以外は誰も、柚希の娘の父親を知らない。
――あの子の生き方はまるで
藤壺とは源氏物語に登場する光源氏の初恋の人。一夜の過ちで光源氏の子を身籠り、生涯、息子の本当の父親を隠し通した女性だ。
この物語は最後にはたったひとりで、たったひとつの大切なものを守ろうと決めた女性の話だった。
スタッフがバスの乗車口から顔を覗かせる。
『本庄さん、一ノ瀬さん、お疲れ様でした。すべてOK出ましたので今日の撮影は終了です』
なぎさは腕時計を見た。22時36分、撮影終了。
長い一日がようやく、終わった。
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