2-6

 なぎさが平井と作業をしている頃、玲夏と蓮はホテルのラウンジでブレイクタイムを楽しんでいた。

玲夏はストローを使ってアイスティーをかき混ぜた。グラスに入る氷が涼やかな音を鳴らす。


「あの人、社長にそんなこと頼んでいたのね」

『俺としては協力者が増えるのは大歓迎だけど、玲夏の元カレって過保護だな』


玲夏と蓮の話題は今夜から加わる潜入調査の“助っ人”のことだ。玲夏は眉間を寄せた。


「その元カレって言い方、やめて」

『事実だろ?』

「人から元カレって言われるのは嫌なのよ」

『まだ好きなのか?』


 蓮に聞かれても玲夏はすぐには答えなかった。彼女はケーキを品よく口に運び、視線を窓の外に向けて押し黙る。蓮は空になったホットコーヒーのカップを押しやり、手持ちぶさたにメニュー表を眺めていた。


「……どうかな。よくわからない。別れてからの2年間はあの人のことを考えないようにしていたから」


 ホテルの最上階のラウンジから見える空は地上で見上げている時よりもはるかに近い。天から零れ落ちる神の涙が地上に届く様を玲夏は目で追った。


 蓮が何かを言おうと口を開きかけた時、玲夏の名前を呼ぶ声が聞こえた。二人は一斉に声がした方を見る。

爽やかな微笑をたたえた男がテーブルの側に立っていた。


「あら、黒崎さん」

『奇遇ですね。一ノ瀬さんもご一緒で……神戸で撮影ですか?』


彼の名前は黒崎来人。職業は俳優、玲夏と蓮と同業だ。


「スペシャルドラマのロケなの。黒崎さんもこっちでお仕事?」

『僕は京都ロケで太秦うずまさに。今は空き時間なのでこっちにいる友人に会いに来たんです』


 玲夏と社交辞令程度の挨拶を交わして黒崎はラウンジの奥に消えた。


『俺、アイツ嫌い』


黒崎がいる間は終始無言だった蓮は彼の姿が見えなくなると吐き捨てるように呟いた。玲夏が吹き出して笑う。


「子供みたいなこと言わないの」

『ああいう気取った奴は好かないんだよ。どれが本当の顔かわからない薄気味悪さがある』

「役者は騙すのが仕事だからね。いつも別人の人生を生きてる。自分の本当の顔を知っているのは演じている本人だけよ」


 日々、別人の人生を生きて自分のものではない人間の感情を表していると時々わからなくなることもある。

本当の自分とはどんな人間だったのだろう?


 幾つもの女優の仮面の下にある本当の顔。ただの女性としての本庄玲夏とはどんな人間だった?

本庄玲夏を一番よく知っているはずのが実は一番、本庄玲夏を知らないのではないか。

役になりきって演じていると本当の自分が見えなくなる。なんとも滑稽なことだ。


        *


 束の間の休息の時間が訪れた。なぎさはホテルのロビーのソファーに深く沈む。

ふかふかとしたソファーが気持ちよくて、このまま眠ってしまいたかった。

神戸を訪れるのは大学時代に友達と旅行に来て以来、二度目だ。人生二度目の神戸滞在が仕事ではなく気楽な旅行ならどんなにいいだろう……。


(ダメダメ、仕事しないと!)


眠気覚ましのミント味のガムを食べ、手帳を開く。手帳には容疑者達の決定打に欠ける情報が殴り書きされていた。


(みんな怪しいと言えば怪しい。みんな怪しくないと思えばそうなる。あー。もうわけがわからない)


 この神戸ロケで何も突き止められなかった場合、早河や吉岡社長にどんな顔をして会えばいい? 何もわかりませんでした、ではガッカリさせる。

玲夏の殺人を示唆する例の手紙の差出人と事務所への陰湿な嫌がらせ行為の犯人は同一なのか、別人なのか、それだけでも掴めればいいのに現状は八方塞がりだ。


(手紙に書かれた“殺しにいく”って本気なの? 本気だとすると玲夏さんの命が危ないよね。人の命まで守れる能力、私にはないよ……)


 なぎさのいるソファーにキャップを被った男が近付いてくる。男は背後からなぎさの耳元に顔を寄せた。


『ねぇねぇ、そこの綺麗なお姉さん。暇なら俺と遊んでよ』

「私のどこが暇に見えるんですか。これでも忙しいんです。あっち行ってください」


たとえ海外スターや人気俳優にナンパされたとしても今のなぎさには苛つく材料にしかならない。男はなぎさの正面に回り込んで腰を屈めた。


『うわぁ。なぎさちゃん恐いなぁ』


どこかで聞いた声だ。このホテルには撮影の関係者が多く宿泊している。俳優かスタッフの誰かにしては気安い口調でもある。


 手帳から顔を上げた彼女は目の前の男を見た。黒縁の眼鏡をかけた男は被っていたキャップを外してなぎさの顔を覗き込む。


『俺、なぎさちゃんに嫌われちゃった?』

「……矢野さん……!」

『ハロー。マイスウィートハニィー!』


 眼鏡のレンズを上に持ち上げてニヤリと口元を上げたその男はいつも早河に情報を提供している情報屋の矢野一輝だった。


「どうしてここに……」

『助っ人として呼ばれまして。どう? この眼鏡。俺、視力2.0だから伊達だけどちょっとは真面目っぽく見える?』

「はい……。別人に見えました」


 呆気にとられているなぎさの斜め向かいに矢野は座った。

矢野は普段の柄シャツではなく、黒のパーカーにジーンズ、キャップを被り、首からはなぎさと同じく撮影関係者用のパスカードを下げている。


『早河さんがなぎさちゃんのことむちゃくちゃ心配しててさー。玲夏ちゃんの事務所の社長に頼んで俺も一ノ瀬蓮の付き人ってことにしてなぎさちゃんのフォローをすることになったんだ』

「ああ……だから一ノ瀬さんが助っ人が来るって言っていたのね」


矢野の登場で一気に気が抜けたなぎさは額に手を当てて溜息をつく。慣れない現場でたった一人で調査を行うのは不安だった。

矢野が来てくれて正直ホッとした。


『だいぶ参ってるようだねぇ』

「すみません。初めてのことだらけで、神経が張り詰めていたみたいです」

『ま、これからは俺もいるし早河さんも東京で動いてる。だからそんなに気を張らなくてもいいよ』

「はい」


 仕事を完璧に遂行するための対処であったとしても、自分を心配して矢野をフォローに寄越してくれた早河の気持ちが嬉しかった。

早河のことを考えると胸が苦しくなるのは、どうしてなんだろう……

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