2-2

   ――東京――


 聞き込みを終えて警視庁に戻ってきた小山真紀はロビーで科捜研の男性職員の小坂に呼び止められた。小坂がA4サイズの封筒を真紀に渡す。


『頼まれていたヤツ、鑑定しておきましたよ』

「ありがとう。何かわかった?」

『微量ですが、便箋から整髪料の成分が検出されました。あと犬の毛』

「犬?」


真紀は封筒から出した資料の束をめくった。玲夏に届いた脅迫の手紙の鑑定結果だ。


『DNAデータベースにあったチワワの毛と照合してみると類似度70%だったので間違いなく犬の毛です』

「犬かぁ。犯人が飼ってる犬の毛が便箋についたのか……」

『それ、小山さんが追ってる明鏡大の事件とは別件って言ってましたけど、まさか小山さんが単独で抱えてる案件ですか? 鑑定した手紙、女優の本庄玲夏宛ですよね』

「まぁ……ちょっと個人的な頼まれ事なのよ。でも上司の許可はもらってるから」


小坂の探りを入れる目付きを無視して真紀は資料にざっと目を通した。


「成分から特定できたこの“天使のシャワー”って整髪料、女物よね?」

『はい。うちの女性職員が言ってましたけど、えっと、なんでしたっけ、あのアイドルっぽい子……。俺は芸能界には疎いのでそちらの方面はよくわかりませんが、なんとかノアってタレントがCMで宣伝してる5月発売の女性用ヘアトリートメントの成分です。その商品はスプレータイプで、スプレーした時に空気中に飛沫した成分が便箋に付着したんだと思います』


 小坂は外した眼鏡を白衣の袖で拭いている。


(小坂くんて、ボサボサの髪整えて眼鏡を外せばけっこうイケてる風なのに色々と惜しいよね。しかしなぁ、玲夏への嫌がらせの手紙に付着していた成分が女性用のトリートメント……まさか犯人は女?)


 後でドラッグストアに寄って天使のシャワーの現物を見てこよう。その商品をCMで宣伝しているのはタレントの“なんとかノア”と小坂が言っていたが、それだけでは誰のことだかさっぱりわからない。


 小坂に礼を言い、エレベーターホールでエレベーターの到着を待つ。警視庁は地上十八階地下四階の建物でエレベーターは留置人用の一基を含めて十八基ある。

下りを示す表示のエレベーターの扉が開いた途端、中から男達が溢れるほど降りてきた。身なりから一目で組織犯罪対策部の刑事達だとわかる。


組対そたいがこんなに出払っていくなんて何かあったの?)


降りてきた軍団の中には真紀の上司、捜査一課警部の上野恭一郎の先輩刑事にあたる石川警部の姿もあった。物々しい雰囲気でロビーを闊歩する彼らを見送って真紀はエレベーターで捜査一課のフロアに向かう。


 捜査一課に到着してホッとした。やはりここが今の自分のホームだ。一課のフロアはほとんどの捜査員が不在だった。

残っているのは同じ班の原昌也くらいだ。


『小山、今戻ったか。ちょうど組対の連中がぞろぞろ出ていったとこだろ?』

「はい。組対があんなに出ていくなんて何かあったんですか?」


 真紀はジャケットを脱いで椅子の背にかけた。今日は梅雨時らしい蒸し暑さだ。原はけだるそうにパソコンに向かっている。


『九州牛耳ってる高瀬組が反乱起こしたらしい。福岡県警の要請でうちの組対が今から九州飛ぶんだよ』

「九州の高瀬組……この前、組のNo.2が出所してから内部抗争が起きていましたよね」


カウンターに置いてある今日の朝刊を開いた。現在捜査中の明鏡大学准教授の殺人事件に関する記事が載っているが、真紀が見たのは天気予報の欄だ。

 _______________

  2009年6月8日 月曜日の天気


  東京・曇り時々晴れ

  降水確率・午前50% 午後40%


  神戸・曇りのち雨

  降水確率・午前50% 午後80%


  福岡・雨

  降水確率・午前70% 午後90%

 _______________


(神戸は夜に雨か。玲夏の撮影大丈夫かな)


        *


 早河仁は文京区音羽の出版社を訪れた。

この会社から出版されている週刊Mondayの副編集長の壁屋かべやとは刑事時代からの顔馴染みだ。


『早河さん風邪ですか? 声かすれてますよ』

『あー……少し熱っぽいかも』


 早河は鼻をすすり、かすれた声で返事をする。昨日、雨の中を傘も差さずに走ったせいか今朝から体調が優れない。

壁屋がティッシュを箱ごと早河に差し出した。有り難くティッシュを頂戴して鼻をかむ。


『気を付けてくださいよー。早河さんは自分を粗末にする癖がありますからね』

『そのセリフ、色んな奴に言われる。で、頼んでおいたネタは?』

『本庄玲夏を張ってる記者ですよね。彼女はスキャンダルがまったくない女優なので張ってる記者も少なめではありますが……。最近、本庄玲夏をマークしている記者はコイツです。津田弘道』


壁屋がメモ用紙を早河に渡した。


『フリーの記者か』

『津田はうちの業界でもブラックジャーナリストで有名な奴です。津田のネタでうちもだいぶ儲けましたけど、とにかくネタの仕入れ方法がヤバい。偽造捏造お構い無し。本庄玲夏も厄介な奴に目を付けられちまいましたね』

『津田が玲夏を張り出したのはいつ頃だ?』

『1ヶ月前です。今のところ目ぼしいネタはないようですよ』


 1ヶ月前ならゴールデンウィークの頃だ。例の手紙が届いたのも事務所への嫌がらせが始まったのも5月初旬、時期としては一致している。


『しかし早河さんが本庄玲夏の依頼を受ける日が来るとは。元カノの窮地を救うために奔走するイケメン探偵! って特集組んでもいいですか?』

『却下。それやったら社会的に抹殺するぞ』

『怖いなぁ。元刑事の言葉とは思えませんよぉー。今日はいつも連れてる美人な助手さんはどうしたんです?』

『アイツも別の仕事があるんだ。そういつも一緒にはいねぇよ』


 立ち上がると目眩がした。熱は測っていないが微熱以上の自覚はある。

なぎさが一緒にいれば「家でおとなしく寝ていてください」と言うだろう。想像すると妙に笑えてくる。


 出版社のビルを出た彼を迎えるのは蒸し暑い水無月の空気。東京の空は分厚い雲の隙間から日が差している。

次第に明るくなる東の空とは反対に、西側はどんよりと黒い雲に覆われていた。


 それは波乱のきざ

 黒い雲から降り注ぐのは

 憎悪を孕んだ黒い雨

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