1‐3

 依頼を引き受けた早河は玲夏の所属事務所の社長、吉岡と話をするために港区にある芸能プロダクション〈エスポワール〉の事務所へ車を走らせていた。

助手席のなぎさが運転席の早河へ顔を向ける。


「所長……。ひとつ聞いてもいいですか?」

『なんだ?』

「玲夏さんとはその……恋人だったんですか?」


なぎさからの質問に早河は少し考えた後、言葉を選ぶようにして答えた。


『……まぁな。玲夏とは2年前まで付き合ってた。俺が刑事を辞めた時に玲夏とも別れたんだ』

「2年前……」


(それじゃあ私が初めて所長と話した時、あの時に付き合ってた彼女さんが玲夏さん?)


 予想していた答えにまた胸が痛くなった。早河と玲夏の様子を見て二人がただの知り合いではないことは察しがついた。


チクリと胸が痛む。この痛みはなに?

このモヤモヤとした感情はなに?

どうしてこんなに心が痛いの?


『でもやり辛い仕事引き受けちまったなって今さら後悔してる』


 早河は彼にしては珍しい気弱な表情で溜息をついた。


「やり辛いって玲夏さんが元カノだからですか?」

『それもある。別れてから一度も連絡とってなかったからな。まさか玲夏が俺に仕事を頼むとは思わなかった。けど芸能界っつーのは、俺ら一般人の常識なんてものが通用しない奴らが山ほどいる。俺にしてみればやりにくい相手しかいない業界なんだよな……気が重い』


 早河がこんなに気落ちしている姿は初めて見る。車が交差点で右折した。


“女優と付き合ってただけあって芸能界の事情に詳しいですね”と言おうとしてなぎさは慌てて口をつぐんだ。これではまるで早河への嫌味だ。


 高層ビルの地下駐車場へ早河の車が滑り込む。それまで聞こえていた雨と雷の嵐のシンフォニーが地下に潜った途端に鳴り止んだ。

地下駐車場からエレベーターで地上に上がる。早河は目的の階がわかっているのか自然な動作で階数ボタンを押していた。


(ここのビルに来るのも初めてじゃなさそう。何度も来たことあるみたいな……)


この事務所までの道のりも地下駐車場のエレベーターの場所も早河は熟知していた。それは早河が何度もこのビルを訪れている証。

玲夏との関係の深さを物語っている。


(ああっ! もう。なんでこんなにモヤモヤするの。仕事だ仕事。頭を切り替えなくちゃ)


 思考を仕事モードに切り替えようとしても、時折垣間見える早河と玲夏の過去がどうしても気になる。本当に聞きたいことほど聞けないものだ。


 エレベーターの扉が目的の階に到着した。細かなラメの入る白とネイビーの市松模様のタイルを敷き詰めたエレベーターホールが二人を出迎えた。照明に当たって床のラメがキラキラと光っている。


ホール前の廊下に小柄な女性が立っていた。彼女の顔をなぎさはつい数時間前に見たばかり。早河探偵事務所まで玲夏を迎えに来たマネージャーの山本沙織だ。

沙織は丁重な態度で早河となぎさを社長室に案内する。沙織に促されて二人は社長室のプレートがかかる部屋に通された。


『やぁ、早河くん。久しぶり』


 シルバーグレーの髪をオールバックに整えた紳士が革のソファーに座って待っていた。

彼は玲夏を含めた大物俳優が多く所属する芸能プロダクション、エスポワールの社長の吉岡繁。吉岡自身も四十代までは実力派で有名な役者だった。


『吉岡さん、ご無沙汰しています』

『そう固くならなくていい。まぁ二人とも座って』


 早河となぎさはいかにも高級そうな革張りのソファーに腰を降ろした。向かいに吉岡が座っている。


『二人はコーヒーでいいかな? 山本くん、コーヒーを二つお願いね』

「はい」


内線で沙織がコーヒーの指示を出している。舞台俳優出身の吉岡は発声がハッキリしていて声に張りがある。普通の声量で話をしていても彼の声は部屋に響いていた。


『さっそくだが、話は玲夏から聞いているね?』

『はい。玲夏に送られた手紙の差出人を突き止めて欲しい、とのことですね』

『うん、まぁそういうことだ。私から正式に君の事務所に依頼をするよ。もちろんタダ働きはさせない。調査にかかった料金はいくらでもうちの会社宛に請求してもらって構わない。その辺のことは山本くんと君の間で決めてくれ』


 沙織が早河に一礼した。早河も沙織を一瞥して頭を軽く下げる。


『玲夏も今では有名女優の仲間入りだからね。愛しているだの、殺すだの、あの程度のファンレターなら毎日山ほど届いている。今回も今までと同様に特に気にすることでもないと思っていたんだが……』

『手紙の件とは別に何か気になることでもあるんでしょうか?』


 普段はあまり言葉を濁さない吉岡が珍しく口ごもる様子を早河は怪訝に思う。ノックの音の直後に社員が早河となぎさのコーヒーを運んで来た。

コーヒーカップを二つ置いて社員が社長室を去るのを待って吉岡が口を開く。


『玲夏を再来年公開予定の映画の主演にとオファーがあってね。今のところほぼ玲夏主演で決まりそうなんだが、その映画の主演オファーが玲夏に来た途端にうちの事務所が嫌がらせを受けるようになったんだ』

『嫌がらせ?』

『最初は大したことない、受付に生ゴミがバラまかれていたり白紙のファックスが大量に送られたりと言った子供のイタズラ程度のものだった。それが次第にエスカレートして先週は事務所のスタッフがバイクにかれそうになり、スタッフの自宅に無言電話がかかってきたりと人的被害が出始めている』


 早河は念のためになぎさにメモをとらせた。なぎさは手帳に吉岡の話を箇条書きでメモしていく。


『嫌がらせが始まったのはいつ頃?』

『玲夏に映画主演のオファーが来たのが4月末頃、嫌がらせはその直後の5月……ゴールデンウィーク頃から始まった。極めつけが君に見せたあの手紙だ』


 1通目の手紙の消印は5月8日だった。嫌がらせが開始したタイミングと一致する。


『玲夏の映画主演を快く思わない人物が嫌がらせをしているかもしれないと?』

『ああ。手紙の差出人と嫌がらせの人物は同一人物ではないかとも私は思っていてね。……山本くん、明日の玲夏のスケジュールは?』


吉岡が背後に控える沙織に尋ねた。沙織は手に持つ手帳を開いて玲夏のスケジュールを確認する。


「明日は午前に女性誌の表紙撮影とインタビューが1件、午後には新春スペシャルドラマのクランクインです」

『そうか。クランクインは明日か……』


吉岡はなぎさに目を留めた。


『早河くん。君の助手さんを玲夏の付き人としてしばらくお借りしても構わないかな?』

『……は?』

「……え?」


 早河となぎさは同時に驚きの声を発した。吉岡は顎の下をさすりながら、なぎさを見つめている。


『明日、玲夏がクランクインするドラマの現場は共演者のメンバーが厄介者揃いなんだ。正直に言えば共演者達の中に嫌がらせの犯人がいると考えている。断言はできないが、玲夏と折り合いが悪い人間が関係者に数人いるのは確かだ』

『それでどうして香道を……?』

『君が玲夏の側にいれば何かと目立つ。どこで変な噂が立つかもわからない。君にしても玲夏との過去が公にされる事は好ましくないだろう。君に女性の助手がいると聞いた時から考えていたんだが、香道さんは玲夏の付き人に最適だ。玲夏の付き人として不穏な動きをする人間を探ってもらえないかな?』


 吉岡に微笑まれてなぎさは答えに窮する。突飛な提案に困惑するなぎさは早河に助けを求めた。彼はじっと吉岡を睨み付けて何かを思案していたが、やがて諦めた顔で肩をすくめた。


『なぎさ、お前次第だ。中途半端な覚悟じゃこの仕事はできないぞ』


早河となぎさはアイコンタクトを交わす。本当は止めて欲しいと早河の瞳が言っている気がした。

芸能人の付き人をした経験はない。それもただの付き人ではない。付き人のフリをして犯人を探る重大な任務がある。責任も伴う。


(吉岡社長はやれと言うし、所長は止めて欲しそうだけど口には出さない。全部、私次第……)


「わかりました。私、やります」


 なぎさは吉岡の提案を了承した。玲夏と接してみて、玲夏の飾らない人柄に好感を抱いた。彼女が困っているのなら助けたい。

大丈夫。早河がついていてくれる。そう思うだけで心強かった。


 なぎさが玲夏の付き人としてドラマの関係者で不審な動きをしている者がいないか探り、早河は別口から手紙の差出人と事務所への嫌がらせの犯人を探る方針で話はまとまった。

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