3-3

 部屋の観察をしていた真紀は対面式キッチンにいる矢野と目が合った。


『コーヒーもうすぐできるよ。……ん? どうした? そんなにジーっと見られるとさすがの矢野くんも照れるんだけど』

「別に……矢野くんを見てたんじゃないからっ」


 慌てて布団で顔を覆う真紀が愛らしい。ベッドに近付いた矢野は布団から見える真紀の髪に触れる。黒くて艶のあるサラサラな髪だ。

髪に触れるだけ、触れるのはここまで。


『……コーヒー持ってくるね』


真紀に一声かけて矢野はベッドを離れた。矢野の足音が遠ざかると真紀は布団から顔を出して髪に触れた。たった今まで矢野に撫でられていたくすぐったい感覚がまだ髪に残っている。


(矢野くんはどうして私なの?)


 交際を申し込まれてはいなくても矢野が自分に向ける好意は充分過ぎるほど伝わっている。彼に与えられる愛情に不快感を覚えたこともない。


だけど素直に矢野を受け入れられない真紀がいた。それはまだ香道秋彦に未練を残すもうひとりの真紀。

香道秋彦の幻影に囚われ続けるもうひとりの真紀が矢野を拒んでいた。


(もう香道先輩には会えないのに。それに香道先輩が生きていたって、今頃は桐原さんと結婚して、子どもが生まれて、子煩悩なお父さんをやってる香道先輩の家族話を私が笑って聞くってオチなんだよ)


 最初から実らない片想い。来月には29歳になる女がいつまでも死んだ男に片想いして強がって、馬鹿みたいだ。


 コーヒーの香りがする。スリッパの足音が近付いてきた。


『お待たせ』


矢野のその声を合図に真紀はふらつく頭を押さえて身体を起こした。床に両足をつけ、立ち上がる真紀を矢野が支えた。


『ベッドにいたままでもいいのにまだそんなふらふらして』

「大丈夫だから……」

『今日、真紀ちゃんの口から大丈夫とか平気って言葉、何回聞いたかなー。大丈夫じゃない時に限って、口癖のように言うよね』


 なによそれ。わかったようなこと言って……と、口を開けば悪態しか出ない。真紀は黙って矢野に支えられて黒いソファーに腰を降ろした。

矢野も真紀と少し間隔を空けて同じソファーに座る。


 真紀の前に瑠璃色のマグカップが差し出された。ミルクの混ざった淡い色合いのコーヒーからはあたたかい湯気が上がっている。

真紀がブラックコーヒーが苦手なこと、コーヒーには砂糖とミルクたっぷりが好みなことを矢野は覚えていた。


「ありがとう。いただきます」


礼を言って、コーヒーに口をつけた。コーヒーは熱すぎず、ぬるすぎず、体調の悪い真紀を気遣った絶妙な温度だ。流石さすがとしか言い様がない。


『どう?』

「……美味しい」

『あー……! 良かった。真紀ちゃんに美味しいって言ってもらえるのが俺は一番嬉しい』


 子どものように無邪気な顔で喜ぶ矢野が飲むコーヒーは砂糖もミルクもないブラック。コーヒーカップを持つ手は男らしくゴツゴツと骨張っている。

子どもなのか、大人なのか、よくわからない男だ。


(コーヒーひとつでそんなに喜ぶもの?)


矢野の笑顔を見るのが気恥ずかしくて、真紀はうつむいてコーヒーをすすった。彼の作るコーヒーは口に入れた時に最初は少し苦味がある。その後、だんだんと優しい甘さに変わる。まるで矢野自身のようだ。


「矢野くんって、謎だよね」

『謎?』


 気付けばそんな言葉が口から出ていた。首を傾げる矢野は左手にカップを持ち、右腕をソファーの肘掛けに乗せている。


「掴めない人って言われない?」

『ああ、そういう意味ね。掴めないって言うか、何考えてるのか読めないとは言われるよ』

「そう、読めない。どれが本当の矢野くんなのかわからない」


 彼女は中身が半分に減ったカップを見下ろした。矢野との接触が増えるたびに、情報屋としての彼の裏の顔を垣間見る機会も多くなった。

ヘラヘラと軽いお調子者の裏側に隠されたシリアスな顔。情報を獲るためなら手段を選ばない。危険な方法で情報を獲てきたかと思えば、軽い調子で女を口説く。


矢野は苦味があるのに甘い。このコーヒーみたいな印象だ。


『真紀ちゃんに見せてる顔は本当の顔だよ』


 矢野の声色が変わった。そう、これだ。この声の変化にいつもドキッとさせられる。

ヘラヘラと笑っていた次の瞬間には真剣な言葉をぶつけてくる。


「嘘……」

『本当に。真紀ちゃんの前だとありのままでいられる。真紀ちゃんの知ってる俺が本当の俺』


 矢野がカップをテーブルに置いた。


『真紀ちゃんこそ、俺に本当の姿見せてないだろ?』

「本当の姿って……見せるも何も、矢野くんに見せる必要ないじゃない」


また強がって悪態の言葉しかでない。可愛くない女だ。

矢野の身体がこちらに向いた。


『俺は見たいけどね。強がりが癖になってる真紀ちゃんの本当の姿。俺には見せられない? 本当の姿……』


 真紀の肩まで伸びた髪に矢野の指先が触れる。真紀は矢野から顔を背けた。それが今できる精一杯の抵抗だ。

脈が速い。顔が熱い。身体が熱いのは体調が悪いから、温かなコーヒーを飲んだから、いや、違う。

矢野に、触れられているから?


「……帰る。コーヒーご馳走さま」


 瑠璃色のカップをテーブルに置いて矢野から逃れるように立ち上がった。立った時にふらつきを感じても、今度は矢野の手は借りない。


『送るよ』

「いい。ひとりで帰れる」

『ここ、どこら辺かわかって言ってる?』


 矢野が苦笑して窓の外を指差した。大きな窓から見える景色は赤い夕陽に染まる高層ビル群。どうやら都心の高層マンションらしいことは景色をみれば一目瞭然だった。

いいご身分だ。年下のくせに。


「麻布? それとも新宿?」

『おお、なかなかいい線いってる。けど、さっきまで倒れてた女の子をひとりで帰すわけにはいかないでしょ?』


彼はキーケースを服のポケットに入れて玄関に向かっていく。


(矢野くんの女たらし! そうやって今まで何人の女口説いてきたのよ?)


 そう言えば今の矢野は普段の派手な柄シャツにジャケットではなく、Tシャツにジーンズ姿だ。昼間会った時は確か赤色の柄シャツを着ていた。

そうして普通の格好をしている彼を見るのは初めてかもしれない。


(あの柄シャツの装備は仕事着ってこと?)


 真紀も矢野を追って広い玄関に出た。こんな高級マンションを訪れるのは親友で女優の本庄玲夏の自宅に遊びに行く時か、セレブな人間が事件関係者になった時くらいだ。

しがない公務員の自分にはこんなマンションは一生縁がない。


「ねぇ、倒れた私をここまで運んだのって矢野くん?」

『そりゃあ俺しかいないしね。ここまで車で運んで、おんぶして、真紀ちゃんの寝顔を独り占めしながらベッドに運びましたよ』


玄関先で振り返った矢野が真紀の耳元で囁いた。


『寝込みは襲ってないから安心して。ムラムラはしてヤバいなぁって思ったけど、矢野くんの理性が欲望に勝ちました。偉いだろ?』

「……変態っ!」


 何もされていないとは思っても、何かをしようとしたニュアンスを残されて真紀は顔を真っ赤にした。赤面する真紀を見て矢野は陽気に笑っている。


 真剣な顔で口説いてきたり、おちゃらけて笑ってからかったり、やはり掴めない男だ。

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