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 矢野の車に乗るのはこれで何度目だろうと真紀は考えた。正確に数えたことはないが少なくはない。

高層マンションに住んでいる彼の車はごく一般的でありふれた乗用車だ。影で暗躍して情報を集める情報屋を名乗る彼は車種が限られる目立つ車には乗らないのかもしれない。


『冷房より外の風の方が身体にいいだろうね』


 走り出してから矢野は車内の冷房のスイッチを切って代わりに窓を数センチ開けた。

都会の空気は田舎に比べれば清々しいとは言えない。それでも夏の夜が迫るこの時間帯の風は心地いい。


「警部に何て言って連絡したの?」

『真紀ちゃんが倒れたからしばらくお預かりしまーすって』


ハンドルを握る矢野の前髪を運転席側の窓から吹く風が揺らしている。


「お預かりって……。はぁ、警部に変な誤解されそう」

『大丈夫じゃない? 上野さんも“おお、宜しく頼むなー”って言ってたよ。俺も上野さんとは知らない仲じゃないしさ』

「前から不思議だったんだけど、矢野くんはいつから上野警部と知り合いなの?」


 真紀が上野の部下として警視庁に配属された時にはすでに、矢野は早河や上野と交流があった。特に当時は刑事だった早河とは仕事仲間にしては親しすぎる印象を受けた。


『真紀ちゃんに話したことなかったっけ。上野さんとは早河さん繋がり。早河さんが警視庁に異動してからの付き合いだよ。……香道さんともよく仕事させてもらってた』


 香道の名を出した時に矢野は横目で真紀を一瞥した。一瞬だけ彼女と目が合う。


「……そうだったの」


それだけ言って、真紀は助手席の窓に顔を向けた。


『香道さんの命日、もうすぐだな』


 矢野が呟く。フロントガラスの向こうには太陽と月が交わる紫色の空が広がっていた。

夏の短い夜のプロローグだ。


「……うん」

『まだ好き?』


誰を、とは彼は聞かなかった。真紀にはそれだけで通じると確信していた。予想通り、彼女は黙ってしまった。


『変なこと聞いてごめん』

「いいよ。気にしてない」


気まずさの残る車内。二人は夏の夜風に吹かれてこの重たい空気をやり過ごした。


 都会の通りを抜け、住宅街の脇道で車が停車した。ここから歩いてすぐに真紀の自宅がある。


「送ってくれてありがとう。今日は迷惑かけてごめんなさい」


シートベルトを外した真紀の手を矢野が掴む。街灯の明かりが車内を照らした。


『俺はずっと待ってるから』


 直視する矢野の視線が痛い。心臓が痛い。掴まれた右手は彼の体温と真紀の体温が合わさって異様に熱い。


「どうして私なの? 矢野くんなら他にいくらでも相手してくれる女いるでしょ?」

『俺は真紀ちゃんがいい。恋愛ってそういうものだろ?』


真紀の手を掴んでいた矢野の手が彼女の頬に移動する。キスをされるかもしれないと真紀は身構えたが、彼はそこから少しも動かなかった。


『真紀ちゃんが本当に俺のこと嫌いだったりうざがってたりするなら俺だって引き下がるよ。でも最近は少しは望み持ってもいいかもって思ってる』


ドキドキと心臓が煩い。矢野の一挙一動に振り回されて揺さぶられて。


『俺のこと嫌い?』

「……嫌い……じゃない」

『良かった。今はそれだけで満足』


 小学生の男の子が笑うみたいに矢野は顔をくしゃくしゃにして笑った。男の子になったり、男になったり、掴めなくて読めない不思議な男。


『おやすみ。ゆっくり寝なよ』

「おやすみなさい」


 真紀は車を降りて扉を閉めた。矢野が運転席から手を振っている。曖昧な笑みだけを残して彼の車に背を向けた。


 強がりの鎧を脱げたら楽なのに、彼女はそれができない。男の前で可愛く甘えて見せることも弱音を吐くことも、弱い自分を誰かに見せることもできない。

本当の彼女は弱虫で怖がりで泣き虫。甘えん坊で臆病者。でもそれじゃダメ。私がしっかりしなきゃって、思い始めたのはいつだった?


 自宅に戻ると携帯電話に数件の着信が入っていた。一件は昼間に電話で話したばかりの母親からで他は仕事の連絡だ。


 母親への連絡を後回しにして、真紀は浴室に駆け込んだ。ぬるめに設定したシャワーを浴びて、濡れた身体でうずくまった。


 ――真紀が強がりの鎧を纏い始めたのは両親が離婚した小学3年生の頃。真紀の母親はひとりで真紀と5つ下の妹を育てた。

仕事を二つも三つも掛け持ちしていた忙しい母親に代わって、妹の面倒を見ていた真紀はいつの間にか私がしっかりしなくちゃ、そう思うようになっていた。

“母も妹も私が守る”……と。


 世の中は理不尽だ。父親がいる、いないで無意味な差別が起きる。シングルマザーとその子どもに向けられる世間の目は冷たかった。


父親の有無に何の意味があるのか、父親がいないだけで同級生にも同級生の母親からも、時には教師や近所の住民からも見下される。そんな理不尽な世の中に対抗する術として真紀が選んだ職業が警察官だ。


 母が何を求めているかはわかっている。子ども時代に苦労させた分、二人の娘には幸せな家庭を築いて欲しいのだ。

5歳下の妹の千春は姉の真紀よりも要領がよく、妊娠をしてからの結婚、トントン拍子に家庭を築いていった。


 母に電話をかければまた昼間の見合いの話の続きだろう。風呂を出ても折り返し電話する気にはなれなかった。

自分は結婚に失敗したくせに、娘には早く早くと結婚を急かす。困った母親だった。

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