episode3.蝉時雨
3-1
…28歳。警視庁捜査一課 刑事
…27歳。情報屋
…47歳。警視庁捜査一課 警部、真紀の上司
…享年33歳。警視庁捜査一課 刑事
※回想場面のみ登場
…29歳。女優
真紀の親友、早河の元恋人
…31歳。探偵、元警視庁捜査一課 刑事
――強がりの鎧を脱げたら楽なのに……
*
2009年8月5日(Wed)午後3時
真夏の太陽が照りつける都会のコンクリートジャングルでも、どこに潜んでいるのか蝉の鳴き声は聴こえてくる。
勝手にBGMとして流れる蝉の大合唱に小山真紀は片耳を手で塞いだ。反対側の耳には携帯電話を当てている。
「……お見合い?」
{そうよ。真紀にいい縁談のお話があるの。あんたも来月でもう29になるんだから、いい加減に結婚考えなさい。妹の
電話相手は真紀の母親だ。
「千春は先に子どもデキちゃったから結婚したんでしょ。ねぇお母さん、その話はまた今度でいい? 今仕事中なの」
{刑事なんて女がいつまでも続けられる仕事じゃないでしょう? なにもそんな男社会で働くことないじゃない。普通の企業に勤めて、結婚相手を探して、子どもを産む、女はそれが幸せなのよ}
またこの話だ。結婚や出産が幸せのすべてだと思っている母のまるで宗教の教えのような語り文句にはいつも
「あー……はいはい、わかった。とにかく仕事中だから、もう切るね」
まだ小言を言いたそうな母親との通話を無理やり終わらせ、携帯電話をジャケットのポケットに押し込んだ。
(結婚、結婚って価値観が古いのよね。今の時代、あえて一生独身を選択する人だっているのに時代錯誤もいいところよ)
「……あっつ……」
日陰で電話をしていたがそれでも額から汗が噴き出してくる。
最近は気温が35℃近くになる日も多い。今日の東京の予想最高気温は確か34℃だ。
溶けてしまいそうに暑い日が続いている。
今年もまた夏がやって来た。あの人がいなくなった夏が。
(男社会か……)
母が言ったその一言がしつこく頭に残る。
時代がどんなに移り変わっても結局この世はどこまでも男社会だ。
刑事であろうと企業勤めの会社員であろうと、組織に属していることに変わりはない。
その組織を主導となって動かしているのが男という生き物である現実も変わらない。
(……仕事、仕事っ!)
首を振って気持ちを切り替え、彼女は日陰から太陽の下に出た。途端に目眩を感じて近くの塀に手をついた。
暑さで身体がバテているのかもしれない。
『まーきちゃん』
通りを歩いている時に聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。またか、と呆れて振り返ると電信柱にもたれて矢野一輝が立っている。
この男はいつもそうだ。いつもいつも、突然目の前に現れる。
(私の携帯のGPSでもハッキングしてるんじゃないでしょうね? 矢野くんならやりかねない)
情報屋の矢野には時折、情報提供のために連絡をとるが今抱えている事件では矢野には協力を申し出ていない。
「今回は矢野くんは呼んでいないはずだけど、何か用?」
『えー。つれないなぁ。用がないと会いに来ちゃいけない?』
「私は用がないと会わないわよ」
『俺は用がなくても真紀ちゃんに会いたいな。今、真紀ちゃん達が追ってるのって品川で起きた連続通り魔のホシだろ?』
電信柱から身体を離した矢野がこちらに歩いてくる。
(なんで私がその事件の担当だって知ってるのよ)
聞くだけ野暮な質問が喉元まで出かけたが、その言葉を飲み込んだ。矢野は情報屋だ。警視庁の刑事がどの事件の捜査を担当しているか調べるくらい、きっと彼には容易い。
『その通り魔によく似た男が頻繁に出入りしてる風俗店があるの知ってる?』
矢野がニヤリと口元を上げた。そんな情報は初耳だった。まだ警察が掴んでいない情報だと知っていて矢野は聞いているのだ。
「どこの店?」
『教える代わりに今度デートしよ』
またか。これもいつものパターンだ。何かにつけて矢野は真紀をデートに誘う。
大抵は真紀がうまくあしらってデートに繋がることは稀。しかしこれまでにも何度か休日に二人で会ってはいる。
「しばらく休み無しなの。それに休みがあっても矢野くんとは会いません」
『じゃあ通り魔の情報もいらないね?』
そうそういつも餌には釣られない。にこにこ微笑む矢野の艶のいい頬を一発殴ってやりたい気分だった。
男性なのに矢野の肌は艶があってきめ細かい。飲酒、喫煙、夜更かし、不健康なことばかりしているくせに信じられない。
真紀は額に手を当てた。調子が狂うのはさっきから身体の様子がおかしいからだろう。
『真紀ちゃんどうした? 気分悪い?』
「平気だから……」
心配そうにこちらを見ている矢野の顔が歪んで見える。身体がとても熱い。
『……ほんと、強がりだよな』
矢野の声が耳元で聞こえた。どうして彼の声がこんなに近くで聞こえるのかわからない。
身体が熱くて呼吸が苦しい。歪んでいく景色の中でやっぱり矢野の顔も歪んで見えた。
ぐるぐる、ぐるぐる、世界が回る。蝉の鳴き声ももう聴こえない。
真紀の視界は暗闇に閉ざされた。
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