2‐7

8月1日(Sat)午後8時


 渡辺亮がその居酒屋に入った時にはすでに約束の相手は到着していた。彼はひとりでビールを呷っている。


『ヒロがそんなに飲むなんて珍しいな。何かあったのか?』


渡辺は松田宏文と向かい合って座った。二人は従兄弟いとこ同士だ。テーブルには松田が注文したつまみの皿が載っている。


『ああ……後輩に振られた』

『前に言ってた彼氏アリのサークルの後輩だろ? 結局告ったのかよ』


渡辺もビールとつまみを注文し、彼は松田の皿にある焼き鳥をひとつ摘まんだ。


『告白するつもりはなかったんだ。勢いで言っちゃって。彼氏がいるんだから振られるのはわかってたんだけど……彼女は二股かけるタイプじゃないしね。でもまさかなぁ。過去に元カレが死んでるって言うのは衝撃がでかい』

『……元カレが死んでる?』


 焼き鳥を咀嚼する渡辺が動きを止めた。松田はだいぶアルコールでできあがっている様子で、額を押さえて項垂れている。

渡辺のビールとつまみが運ばれて来る間、二人は無言だった。


『えーっと……これ、言っていいのかな。ま、亮くんならいっか。その子の元カレ、人を殺したんだって。それで海に落ちて……死んだって。参るよなぁ。どう足掻いても勝ち目ねぇじゃん』


松田の話を聞いた渡辺は気を落ち着かせる必要があった。まずビールを飲み、わかっているだけの情報を頭の中で整理する。


(おいおい。ちょっと待てよ? ヒロは明鏡大の学生だろ? それでミステリー研究会で、好きな女がサークルの後輩で、元カレが海に落ちてって……)


『……ヒロ、確認させてくれ。ヒロは明鏡大だよな?』

『そうだけど、いきなり慌ててどうした?』

『偶然てあるものだと思って言わなかっただけでさ、俺の幼なじみの彼女も明鏡大なんだよ。今、確か2年生。しかもその子が入ってるサークルがミステリー研究会』

『え? ミス研なら俺も知ってる子だよね。名前は?』

『浅丘美月』


 数秒間、渡辺と松田は互いの顔を見合って静止した。


『……亮くん……それまじ?』

『まじ。まさかとは思うけどヒロが振られた相手って……』

『その浅丘美月』


また沈黙が訪れた。黙々とビールとつまみを消費する渡辺がやがて口を開く。


『従弟が惚れた女が幼なじみの彼女って……俺の周り世間狭すぎだろ』


松田も失笑して頷いた。


『確かに世間狭すぎ。だけど思い出した。浅丘さんて、亮くんが大学時代に巻き込まれた殺人事件と関係ある?』

『そうそう。あの3年前の事件は美月ちゃんの叔父さんが経営するペンションで起きたんだ。俺も幼なじみもその時に初めて美月ちゃんと知り合った。殺人事件が起きて美月ちゃんは……犯人の男とデキちゃったわけ。俺の幼なじみが美月ちゃんと付き合ったのはその後』


 明鏡大学で起きた殺人事件をきっかけにして、6月からあの3年前の事件の関係者の名前をよく耳にする。

美月とは今でも交流があるが、その他の佐々木里奈、青木渡、そして元恋人の沢井あかり。


(あかりはまだ日本にいるのか……アメリカに帰ったのかな)


 松田を見ると彼はまたビールを呷っていた。いつもの彼らしくはなく、飲み過ぎの傾向がある。


 松田が振られた相手が隼人の恋人の美月。渡辺としては内心は複雑だった。

従弟の恋を応援したいものの、隼人と美月の関係に波風は立ててほしくない。

ただでさえ、最近の隼人と美月の間は周りにもわかるほどギクシャクしている。隼人と話をしていても美月の話題がほとんど出ないのはこの3年近くで初めてのことだ。


(ヒロには悪いけど、美月ちゃんがヒロを振ってくれてホッとしてるのも事実なんだよな……)


        *


 隼人の自宅のベッドは隼人の香りが充満している。色違いのパジャマを着て眠る恋人達は今夜は何の夢を見る?


 隼人の腕に包まれて、彼とキスをして、美月は目を閉じた。

聞きたいことを聞けないまま、言いたいことを言えないまま、それでも隼人の温もりに包まれると安心する。ここが世界で一番、安心できる場所のはずだ。


 隼人から贈られたハタチの誕生日プレゼントはムーンストーンのついた指輪だった。美月が前に母親から貰ったムーンストーンのネックレスと似たデザインで、ネックレスと指輪をお揃いで付けれるようにと隼人は考えたようだ。


 彼は指輪を左手の薬指に嵌めてくれた。その意味は言葉がなくても美月にはわかる。

側にいてくれと言った隼人の言葉を信じている。だけど時々、不安に押し潰されそうで怖い。

隼人の心にいるもうひとりの存在に負けてしまいそうで怖い。


聞きたいことほど聞けなくて

言いたいことほど言えなくて

聞きたいことはひとつだけ

言いたいことはひとつだけ


 隼人の心には今……誰がいるの?

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