episode1.金魚鉢
1-1
…20歳。大学3年。予備校講師
…高校2年生、予備校の生徒
クライアント…通称は
――あの夏の話をしようか……
*
僕と彼女の不思議な関係の始まりは大学3年の5月だった。
去年から始めた予備校のバイトで僕が受け持ったのは高校2年生の数学のクラス。
授業を終えるともう外は暗い。生徒が次々と教室から出るのを横目に見ながら黒板を消していた僕はある席に目を留めた。
窓際の一番後ろの席に座る女生徒は授業が終了してから5分は経つのに一向に席から動かない。彼女は無言で携帯電話を操作していた。
『桜井さん、帰らないの?』
僕はその女生徒、桜井杏奈に声をかけた。杏奈はいつもそうだ。いつも最後まで教室に残っている。
いつもは僕が黒板を消している最中に教室を出ていくのに今日の彼女はしつこかった。
「帰りたくないの」
彼女は携帯画面から目を離さずに答えた。黒板を消し終え、チョークの白と黄色の粉がついた手で教壇に置いた鍵束を掴む。金属同士が触れ合う音が教室に響いた。
『もう教室閉めるよ』
「どうして帰りたくないか理由聞かないの?」
『誰にでも帰りたくない時はある』
教室の時計を見ると午後8時だった。開けた窓から聞こえてくる階下にいる塾生達のお喋りが遠ざかっていく。みんな帰宅し始めたようだ。
「先生って面白いね」
『そうかな』
窓の施錠をして振り向くと目の前に杏奈が立っていた。彼女はセミロングの黒髪を二つに結んでいたヘアゴムをとって髪をほぐす。ほぐれた髪からはシャンプーの香りがした。
「先生って彼女いるの?」
『彼女の有無を君に教える必要ないだろ』
「あ、いないんだぁ」
『どうして今の答えで彼女がいないと結論付けるのかな』
溜息混じりにかけていた眼鏡を外し、ポケットから出した眼鏡拭きでレンズを拭いた。笑っている杏奈の顔がぼやけて見える。
「だって彼女がいるならいるって言うよ」
杏奈の手が眼鏡を持つ僕の手に触れる。小さくて、ふわふわとした温かい手だ。
「キスする時に眼鏡って邪魔になる?」
『邪魔に感じたことはないけど相手がどう思ってるかは知らない』
「ふーん。キスはしたことはあるんだ。じゃあ試してみようかな」
僕の手から眼鏡を奪った杏奈は背伸びをして僕の目に眼鏡をかけた。彼女の唇がそのまま僕に接触する。
どうしてかはわからないが避ける気にはなれなかった。
「眼鏡、邪魔じゃなかったよ」
『……そう』
「いきなりキスされたのに冷静だね。先生って見た目真面目そうなのにやっぱり女慣れしてる」
杏奈の髪の毛からふわりと香るシャンプーの香りは僕の好みの香りだ。今はその香りをすぐ近くに感じる。抱きついてきた杏奈の体温もすぐ近くにあった。
『君は何を考えているんだ?』
「先生のこと考えてる」
顔を上げた杏奈は真っ直ぐな瞳で僕をみている。その目は冗談を言っているようには見えず、この状況にどうやって収拾をつけたらいいのか困惑した。
『どうして僕のことを?』
「それ、どうして1+1=2なの? って聞くのと同じだよ」
『同じじゃない』
「先生は私のこと嫌い?」
『好きとか嫌いとか考えたこともない。君は僕の生徒、それだけだ』
背中に回された杏奈の手を振りほどく。それでも彼女は僕の前から動かなかった。
「私は先生が好き。先生と恋愛したいの。3ヶ月だけ。3ヶ月だけでいいから私と付き合ってください」
『3ヶ月だけ?』
「うん。思い出作りに……ううん。やっぱりいい。ごめんなさい。さようなら」
彼女はひとりで自己完結して足早に教室を去った。残された僕は過ぎ去った嵐の威力にすっかり疲れてしまい、しばらく茫然と立ち尽くす。
突然のキスと告白、3ヶ月だけ、思い出作り……わずか数分足らずに起きた出来事に少なからず戸惑いを感じていた。
桜井杏奈……その存在に戸惑っていた。
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