1‐2

 教室の鍵を施錠して廊下に出ると杏奈が廊下の壁にもたれて待っていた。やはり……と言うべきか、彼女のその行動をどこかで期待していたのかもしれない。


『帰ったんじゃなかったのか』

「帰りたくないって言ったでしょ?」

『ここに泊まる気?』

「それもいいかも!」


ニコニコと答えた杏奈の唇に自然と目がいく。あの赤い唇がついさっき柔らかに突撃してきたんだ。


『幽霊出るかもよ。ここも一応学校だからね』

「えー。それは嫌だなぁ。先生、朝まで一緒にいよぉ?」


 さっきからこの子のペースにハマっている。冗談でも男に言うセリフではない。杏奈にとっては冗談ではないのかもしれないが。


『鍵返してくるから玄関で待ってなさい』

「はーい」


 嬉しそうに階段を降りる杏奈の足音を聞きながら教務室に戻った。まだ数名の講師が残っていて、英語担当の二十代の女性講師からこれから飲みに行かないかと誘われたが丁重に断りを入れた。

少し気になって教務室を出る前に塾生の名簿を開いて杏奈の項目を確認した。杏奈は私立高校の2年生、父親は大企業の会社経営、母親はファッションデザイナー、華々しい家系だ。


 僕と恋愛したいと言うのもきっと華やかなお嬢様の気まぐれだろう。ただの気まぐれ。

きっと、そうだ。


 彼女が待っていない方と待っている方、どちらの割合が高いか計算してみた。お嬢様の気まぐれならもう待ってはいないだろう。

しかし僕の言った通りに、杏奈は玄関で待っていた。主人の命令を忠実に聞く忠犬ハチ公みたいだ。


「先生、お腹空いた! 何か食べに行こっ」

『いいけど、ファミレスだよ』

「いいよー」


きっと毎日良いものを食べているであろうお嬢様はファミレスの味に満足できるのか?


 杏奈は僕の腕に自分の腕を絡ませた。発育途中の胸元をこすりつけてくるのはわざとだろう。何を考えているのかわからない女の子だ。

同じ塾の講師や生徒、大学の仲間など知り合いに会わないことを願って駅前のファミレスまで歩く。杏奈は僕のそんな些細でつまらない気苦労も知らずに、鼻唄なんか歌って上機嫌だ。


『どうして家に帰りたくないの?』


今さらこんなことを聞いてみたのも話題がないから。


「誰にでも家に帰りたくない時はあるって言ったのは先生だよ」

『それはそうだけど……』


 そうは言っても、華やかな家庭のお嬢様が家に帰りたくない事情は気にかかる。ファミレスは混雑していたが、なんとか二人分の席を確保できた。


「ここのデミグラスオムライスが大好き」


 杏奈は運ばれてきたデミグラスソースたっぷりのオムライスに目を輝かせている。良いとこのお嬢さんがファミレスの800円のオムライスを好むことに違和感を覚えた。

お嬢様ならもっと高級なレストランの味を好みそうなものだ。


 料理を食べている間、僕は杏奈のお喋りを聞いていた。学校のこと、友達のこと、最近のテレビドラマのこと、芸能人の恋愛スキャンダル、どの話題も興味の薄い話だったが、お喋りに夢中になる杏奈を見ているのは楽しい。


「でもなんか薄っぺらいよね」

『薄っぺらい?』

「友達も学校もテレビも薄っぺらい。みんな上部だけ」


それまで無邪気に笑っていた杏奈の瞳がゾッとするほど冷たくなる。


「壊れちゃえばいいのにね。こんな世界」


 彼女の冷たい瞳の原因は何だろう? 壊れちゃえばいいのにと言う杏奈にかける言葉が見つからない。

年上らしく、そんなこと言ってはいけないよと諭すこともできないのは僕も杏奈と同じことを思うときがあるから。こんな世界、壊れてしまえばいいと……。


 杏奈の冷たい瞳が弱々しい笑みに変わる。


「ダメかなぁ?」

『何が?』

「3ヶ月だけ先生の彼女になること」


その話はいいと打ち切ったのは君じゃないか……


『なんで3ヶ月なんだ?』

「じゃあ3ヶ月以上、付き合ってくれる?」

『それは……』


言葉に詰まる。正直なところまだ杏奈を異性として意識していない。ただ彼女の冷たい瞳の理由は気になっている。


「ね、3ヶ月ならいいでしょ? 3ヶ月だけ、私を先生の恋人にして?」


杏奈が首を傾げて手を顔の前で合わせている。


『自分の言っていることわかってる? 彼女になるってことはつまり……』

「先生が私に何してもいいってことでしょ。私、先生になら何されてもいいよ。って言うか、先生とエッチなことしたいもん」

『はぁ……よくそんなこと平気で言えるなぁ。だからさ、男と女が恋人になるってことはそういうこともしていいよって意味なんだよ。わかってる?』

「わかってるよぉ。子供扱いしないで」


頬を膨らませて口を尖らせる杏奈に今だって充分子供だろと言いたい気持ちを抑える。本当にわかっているのか疑問だ。


『どうして僕なんだ?』


 女の容姿に関心はない僕から見ても、桜井杏奈は可愛い顔立ちをしている。その気になれば同じ学校の同級生をすぐに彼氏にできそうなものだ。何も、年上の塾講師をからかう必要はない。


「その質問、二回目だよ。人を好きになるのに理由はないよ」

『君は僕が好きなのか?』

「えー! 先生、私の告白聞いてなかったの?」


杏奈は膨れっ面だ。告白を聞いてはいたが、どうにも信じられない。


『僕のどこが好きなんだ?』

「どこが好きかわからないから恋なのよ」


 肩にかかる髪をはらう杏奈の仕草に初めてを感じた。

お金持ちの家庭の女子高生が何を好き好んでしがない塾のバイトの大学生に交際を申し込んでいるのか、ここまで話しても杏奈の真意はわからない。


けれど、彼女の不意に見せる冷たい瞳に心が揺らいだ。もっと知りたい、と思っていた。


 渇いた喉を烏龍茶で湿らせて、覚悟を決めた。杏奈はサイドメニューのポテトサラダを頬張っている。


『……いいよ』

「え?」

『僕と付き合ってそれで成績が上がるならいいよ。逆に成績が下がるようなら3ヶ月経たなくてもその時点で別れる。これでどう?』


 理性と本能の天秤が本能に傾いた瞬間、自分でも信じられない言葉を口にしていた。


「本当にいいの? 彼女にしてくれるの?」

『いいよ。だけど試験問題教えては無しね。わかった?』

「うん!」


照れた顔ではにかむ杏奈を可愛いと思えた。


 これはごっこ。お嬢様の気まぐれに付き合う恋愛ごっこだ。

3ヶ月経てば僕達の関係は終わる。

最初はそのつもりだったんだ。


 3ヶ月の意味も深く考えはしなかった。その3ヶ月という数字に何が込められているのか、この時の僕は何もわかっていなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る