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 キャンパスを出た美月と松田は青山通りに出て通り沿いのカフェに入った。先月にオープンしたばかりのカフェは店内にドライフラワーが吊るされ、丸いウッドテーブルと合わせてお洒落な雰囲気だ。


 青山通りを見通せる窓際の席に向かい合って座る。松田はアイスコーヒーを、美月はキャラメルラテとレモンタルトを注文した。


『さっきの人魚姫の話、俺は人魚姫こそミステリーの舞台にぴったりだと思うんだ』

「人魚姫は王子様を殺せなくて泡になって消えてしまいますよね。王子様は真実を知らずに人間の女と幸せに暮らしておしまい。人魚姫の話はフェアじゃなくて私は好きにはなれません」


美月は三角形のレモンタルトの頂点にフォークを入れた。前に、似たような三角形のレモンパイをどこかで食べた記憶がある。どこであったか思い出して美月は慌てて記憶を封じた。


『だからそこで殺人の動機が成立するんだよ。人魚姫が人間の女を殺せばいい』

「先輩って本当にいい趣味してますよね」


 サークル内でも松田のミステリー好きは有名だが、彼は童話でもラブコメでも純粋なラブストーリーでも何でもミステリー要素を持ち込む癖がある。

そこが彼の面白いところだ。


 話し声と流れるBGMでざわつく店内には大学の近くだけあり、入店してきた松田の同級生と思われる何人かの男子学生が松田に声をかけて奥の席に座っていく。

松田は同級生達とわずかに言葉を交わし、美月に向き直った。


『はぁ……。ここを選んだのは失敗だったかも』

「失敗?」

『いや、この店、コーヒーが旨いから意外と男も来るんだなーって。話の続きだけど、童話だって現実だってフェアじゃないよね。大抵はアンフェアな中で生きている。アンフェアの中に少しでもフェアな出来事があると人は喜ぶんだ』

「そうですよね。……現実はアンフェアなことだらけです」


 現実はアンフェア。彼女が最初にそのことに気付いたのはいつだった?

それは3年前の夏。そう、もうすぐあの夏から3年になる。


『どうした? ぼーっとして』

「あ、いえ……」


 美月が休学する前に会った時、確かに彼女は悲しげな顔をしていた。あの悲しげな顔の原因は彼女を誹謗中傷する噂だった。

だとすれば今の作り笑いの原因は? 復学して今日初めて会った美月の笑顔は前と違っていた。


『最近、彼氏と上手くいってる?』

「まぁ……普通です」


うつむいてレモンタルトを頬張る美月の表情は固い。


『普通か。上手くいってるともいっていないとも、どちらでも判断できるね。付き合ってどれくらいだっけ?』

「もうすぐ3年です」

『3年……長いね』

「先輩は彼女いるんですか?」


 今は自分の話を控えたかった美月は話題を変えた。ぎこちなくなる空気に堪えられなくなったからだが、松田は話が面白い方向に向いてきたと思った。


『いると思う?』

「私、先輩にはずっと彼女がいると思っていました」

『その推理を導き出した過程が知りたいな』

「推理ってほどでもないですけど……顔は爽やかイケメンって感じで格好いいですし、リーダーシップがあって女の子には優しいし、普通にしていれば絶対にモテますよね」

『普通にって……俺、そんなに普通じゃない?』


松田が肩を震わせて笑う中、美月は首を縦に大きく振った。


「先輩がミステリーの話を始めたらアウトです。あれだと女の子は引いちゃいますよ」

『浅丘さんは引かないの?』

「私はミステリー好きですから。先輩のミステリーのお話を聞くのも好きです」

『ミス研入るくらいだもんね。“初恋はシャーロック・ホームズです”は、なかなかインパクトあったよ』


サークルに入部したての頃の自己紹介で美月が言ったことだ。美月は顔を赤くして苦笑いした。


「だから彼女になる人もミステリー好きじゃないと無理じゃないかなぁって」

『確かにね。それで彼女と揉めたことも過去にはあったなぁ。でも今回に限っては浅丘さんの推理はハズレ。彼女いないよ。……好きな子はいるけどね』

「えっ! 好きな子いるんですか?」


 松田の意味ありげな視線に美月は気付かない。美月はよく気が利く、勘のいい人だが恋愛方面には疎いようだ。


『けど、片想いで終わりそうだよ』

「告白しないんですか?」

『告白しても振られるのわかりきってるから』

「そんなの、言ってみないとわからないじゃないですか!」

『そう思う?』

「はい。言わないと気持ちは伝わりませんよ」


彼女のあまりの鈍感さに笑いを堪えきれず、松田は吹き出した。きょとんとした顔で美月は首を傾げる。


「先輩? 私、何か笑えること言いました?」

『あー、ごめん、ごめん。可愛いなーと思ってね。俺の好きな人は今、目の前にいるんだよ』

「目の前って……え?」


 美月は躊躇いがちに自分自身を指差した。松田が頷く。

返す言葉が見つからない美月は目を泳がせている。


『ほら、困ってる。だから言っただろ? 振られるのわかりきってるって』

「えっと……あの……いつから……?」

『浅丘さんがミス研入ったばかりの頃。1年前だね。言ってみれば一目惚れ……だな。でも会員達の話の中で君に彼氏がいるって知って、それなら諦めようと思ってたんだ。……さっきまでは』


 松田が飲むアイスコーヒーの氷がグラスの中で涼やかな音を立てた。周りの雑音も聴こえなくなり、美月には松田の声だけが届く。


『彼氏との仲は普通って答えた時の浅丘さん、何か悲しそうに見えた。休学してる間に彼氏と何かあった?』


こちらに向けられる視線に彼にすべてを見透かされている気分になった。隠し事を知られてしまった時の居心地の悪さ。


『ごめん。言いたくないよね。だけど浅丘さんと彼氏の仲がどうなっているのかって俺にも重要なことなんだ。もし彼氏との関係が上手くいっていないなら、君には酷いが俺にはラッキーなこと。少しでも希望が持てるからね』


 何も言えない美月の心を察した松田はさっと話題を切り替えた。サークルのことを話す彼はこれまで通り、何事もなかったように美月に接している。

けれど、美月はあの告白を聞かなかったことにはできなかった。聞いてしまえば、知ってしまえば、知らなかった時にはもう戻れない。


 カフェを出ると、夕暮れの空が二人を迎えた。夕暮れの太陽はどうしてこんなに切ない色をしているのだろう。

関東の梅雨明けの予報は今週中だ。早ければ明日にも夏の訪れの知らせがあるかもしれない。


『俺の告白は気にしなくていいよ。元々言うつもりもなかったことをつい、ね。言ってしまっただけなんだ』

「先輩、私……」


何かを言いかけて口をつぐむ美月に松田は優しい笑みを返す。夕暮れの青山通りを二人並んで渋谷駅まで歩いた。


『童話よりも遥かに現実の方がアンフェアだよな……』


 松田の小さな独り言は夏の匂いを含む風に乗って、街の雑音の中に消えた。

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