3-12
6月14日(Sun)午前7時
昨日は気持ちよく晴れていた東京も今朝は曇り空だった。梅雨の晴れ間は気紛れで長続きしてくれない。
香道なぎさはベッドの中で寝返りを打ち、白い天井を見上げた。まだ起き上がる気にはなれない。
せっかくの日曜日だ。部屋の掃除をして、溜まっているライターの仕事を片付けて、昼過ぎには渋谷に買い物に行きたい。
……そう考えてはいても、まだ身体はベッドに沈んでいる。
なぎさにとって、この1週間は長くハードな週だった。探偵事務所の案件で月曜日から神戸に泊まり、慣れない環境でこなした潜入調査の最中に確認できた自分の気持ち。
ベッドに寝そべって携帯電話のネットのニュース欄を眺める。明鏡大学准教授殺人事件、九州最大の暴力団、高瀬組の解体と組長の殺害……今週は時事ニュースの欄も芸能ニュースの欄も物騒で騒がしい。
なぎさが関わった女優の本庄玲夏の事件に関連したニュースを見ると気分が滅入った。
急に画面が暗転したかと思うと着信画面に切り替わった。日曜の朝に電話をかけてくる図々しさが許されるのは親か友人か恋人の三択。親ならうんざりし、友人なら不思議に思い、恋人なら心踊るモーニングコール。
今回の着信相手は高校時代の友人、加藤麻衣子だった。
「……もしもーし。麻衣子?」
{なぎさ、おはよう。朝早くにごめんね。今って電話大丈夫?}
「うん。大丈夫。どうした?」
起き上がってベッドの上で膝を抱える。とうに目覚めていたが、さすがにまだパジャマ姿とは言えない。
{あのね、なぎさにお願いがあるんだけど……}
「……え?」
*
麻衣子との通話を終えたなぎさはすっかり覚めきった頭で先ほど眺めていたネットニュースの時事欄にある〈明鏡大学准教授殺人事件〉のニュース記事を読み漁った。
数分前まで好奇心程度にしか閲覧していなかった明鏡大学の事件の記事。まさかこんな形で、この事件と関わることになるとは。
「所長、起きてるかな……」
まだ8時にもなっていない。なぎさの上司である早河探偵事務所の所長、早河仁は朝が苦手な人だ。大きな仕事が一段落した今頃はまだ夢の中にいるかもしれない。
しかし事は一刻を争う。早河に連絡をするなら早くした方がいい。
早河の携帯に電話をかけるが、コール音が続くだけで電話に出る気配はない。諦めて電話を切ろうとした矢先、コール音が途切れた。
{……はい}
くぐもってかすれた寝起きの声は普段よりも艶っぽく、覗いてはいけない彼の生活を覗き見てしまったような心地にさせる。
早河への恋心を自覚したなぎさには彼の声ひとつにも心臓が騒がしくなる。
「朝からすみません。寝てました……よね?」
{ああ。……今日はこっちの仕事は休みだろ。何かあったのか?}
用がなくても電話をかけられる関係が恋人なら、用がないと電話をかけられない関係が上司と部下だ。現状はまだまだ上司と部下の関係が続きそうだと落胆しつつ、なぎさは話を進める。
「はい……。所長にご相談というか、お願いと言うか……。さっき友達から連絡があって、所長に依頼をしたい人がいるらしいんです。それが明鏡大学の事件と繋がりがあるようで」
{明鏡大……あの事件か}
「依頼人は私の友達の幼なじみの男性で、名前はキムラさん。キムラさんの彼女が明鏡大学の学生です。それで……」
麻衣子の話を箇条書きにしたメモの、最後の記述を言葉にすることに一抹の躊躇いが生じる。まさか、また、こんなところで……そんな言葉が浮かんでくる。
{どうした?}
「この明鏡大の事件って警視庁が捜査をしているんですよね?」
{そう聞いてる。上野さんもこの事件にかかりきりのようだ。小山にはこっちの事件を手伝わせちまったけどな}
「多分、上野さんや真紀さんに聞けば詳しいことがわかると思うんですけど、明鏡大の事件にもカオスが関わってるみたいです。キムラさんの恋人……ミツキさんと言うんですが、ミツキさんの自宅にカオスの内情が書かれた手紙が送られてきたんです。差出人の名前は“アゲハ”」
早河は無言だった。なぎさも次の言葉が浮かばない。
事件が一件落着したかと思えばまた次の事件。それも立て続けにあの犯罪組織の影を感じる事件が頻発している。
{……依頼人の連絡先は聞いたか?}
「はい。依頼人との連絡は所長の判断を仰いでからにしようと思いまして……」
{じゃあ連絡して段取りつけてくれ。今日でも明日でもいい。日取りと時間は依頼人の都合に合わせる}
「わかりました」
早河への連絡を終えて一息つく。忙しさを言い訳にして散らかった部屋の有り様を見て、せめて家を出るまでに部屋と水回りの掃除だけでもしておこうと心に決めた。
「……もしかしたらこれは休日出勤かも」
独り言を呟いて、彼女は朝食の支度に取りかかった。渋谷での買い物はお預けになりそうな予感がした。
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