3-13

 木村隼人は地下鉄四谷三丁目駅の出口から地上に出た。

麻衣子の友人の香道なぎさからメールで送られた地図を見ながら新宿通りを歩く。東京生まれ、東京育ちの隼人だが四谷を訪れる機会は少なく、この辺りの土地勘は乏しい。


 交差点の角を左折して津の守坂通りに入った。雨は降っていないが湿度の高い曇り空、午前11時になる今は気温も上がってきて蒸し暑かった。

津の守り坂通りを道なりに行き、今度は右折して三栄通りに入る。しばらく行くと公園があり、三階建ての灰色の建物が見えた。目的の建物はここだ。


 昨夜会った黒いワンピースの女の顔が浮かぶ。彼女とここの探偵事務所には何か接点があるのだろうか。

螺旋階段を上がって二階へ。扉横の呼び鈴を鳴らすとすぐに女性が現れた。彼女は柔らかそうなショコラブラウンの髪をバレッタで留めてアップヘアにしている。


「お待ちしておりました。木村隼人さんですね?」

『はい。……香道さんですか?』

「はじめまして。高校時代に麻衣子から木村さんのお話は伺っていましたよ」


なぎさは人当たりのいい、明るい雰囲気の女性だった。そう言えば麻衣子が昔見せてくれた写真で見たことのある顔だ。


『麻衣子、俺の悪口ばかり言っているんじゃないですか?』

「いえいえ。木村さんは麻衣子の自慢の幼なじみみたいですよ」


 早河探偵事務所には彼女の他にもうひとり男がいた。デスクから立ち上がった男との対面は不思議な既視感があった。

この男をどこかで見た気がする。でもどこで会ったのか思い出せない。ハッキリとしない、曖昧な感覚。


 それは早河も同じだったようで、早河と隼人はしばし無言で互いの顔を眺めていた。


         *


 自己紹介を済ませて隼人の話を一通り聞き終えた早河仁はどこに解決の糸口があるのか思案していた。


 発端は先月28日に起きた明鏡大学の柴田准教授の殺人事件。柴田を殺害して美月を罠に嵌めた南明日香もまた、今月7日に死亡している。


美月に届いた例のアゲハからの手紙は警察が預かってると言う。上野に頼めば現物を見せてもらえるだろう。

明日香を操っていたと思われるアゲハは3年前の事件と美月と佐藤瞬の関係を知る人物……


『木村さんはアゲハと名乗る人物に心当たりはありませんか?』

『全くありません。犯罪組織なんてものとは無縁の生活でしたし……。殺人事件だって3年前に巻き込まれたのが初めてでしたよ』


(3年前……となると2006年か)


 3年前というキーワードとアゲハの手紙に登場する佐藤瞬の名前でもしやとは思っていたが、やはりそうなのか。


『なぎさ、2006年のファイルどこにある?』

「2006年は確かこの辺りに……」


なぎさが書棚から2006のラベルが貼られた分厚いパイプ式ファイルを取り出す。早河はファイルのインデックスから8月のページを探して書類をめくった。


『ああ、やはりそうか。木村さんは3年前に静岡で起きた殺人事件の関係者だったんですね』

『はい。その事件で美月と知り合ったんです』

『この事件の時に同じペンションに宿泊していた上野と言う刑事を覚えていますか?』

『上野さんですか? 今でも親しくさせてもらっています』


早河となぎさは顔を見合わせた。世間は狭いとはよく言ったものだ。


『上野警部は私の刑事時代の上司なんです。2年前まで私も刑事をしていましてね。木村さんとどこかでお会いしたことがある気がしていたんですが、3年前の事件の時に確かあなたの事情聴取を担当した覚えがあります』

『……ああ! 思い出しました。俺も早河さんとはどこかでお会いしたことがあると思っていたんです。あの事件の時に……』


 早河が隼人の事情聴取を担当した3年前の事件は静岡の海沿いの町で起きた。ペンションの泊まり客だった啓徳大学の学生が殺され、さらにカメラマンと小説家の間宮誠治も殺された。

三人の被害者を出した連続殺人事件の犯人は同じペンションに宿泊していた佐藤瞬。


 当時高校生だった浅丘美月はペンションオーナーの姪で、佐藤がペンション滞在中に彼と恋仲になってしまった。

逮捕直前に佐藤は美月の目の前で何者かの狙撃を受けて海に転落。海に落ちた遺体の捜索をしたものの、潮の流れの速い地点だったため捜索は早々に打ち切られた。


 佐藤の生存の確認ができないまま事件は被疑者死亡の形で幕を閉じる。これが3年前の悲劇。美月にとっては悲恋の白昼夢だ。

(早河シリーズ序章【白昼夢】参照)


『私もまさかこんな形で木村さんと再会するとは思いませんでした。あの時の高校生が美月さんでしたか。……なぎさ、ここに友達の加藤さんの名前もあるぞ』


 早河はなぎさにファイルを見せて事件関係者の項目を指差した。浅丘美月、木村隼人の他に加藤麻衣子の名もある。

事件の担当刑事欄には早河、上野、小山真紀、原昌也、なぎさの兄の香道秋彦の名もあった。


「この事件、麻衣子が巻き込まれていたので兄から少しだけ話を聞いたことがあります。麻衣子からも私の兄が捜査担当にいたって連絡が来たりしましたし……」

『加藤さんの事情聴取の担当は香道さんだったからな。……木村さん、アゲハは美月さんと佐藤の関係を知っています。この事件の関係者で美月さんと佐藤が恋愛関係にあったことを知る人はどのくらいいますか?』


話題が美月と佐藤に及ぶと隼人の表情が固くなる。彼は重たい口を開いた


『ほとんど全員が知っていたと思います。佐藤が……海に落ちた時に泣き叫ぶ美月をあの場にいた全員が見ているはずですから』

『アゲハの正体を掴む鍵は3年前の事件にあると思います。この中に美月さんを恨んでいる人物はいますか? 何でもいいんです。少しでも思い当たることがあれば』


 早河はファイルの3年前の事件関係者欄のページを開いて隼人の前に置いた。

渡辺亮、青木渡、佐々木里奈、沢井あかり。懐かしい名前が揃う中、彼はあることを思い出した。どうして今まで気付かなかったのか。


『美月に直接的な恨みがあるかはわかりませんが、美月をよく思っていなかった人間ならいます。……佐々木里奈。俺の元カノです』

『佐々木里奈……当時は啓徳大の4年生でしたね』


佐々木里奈の顔を早河は思い出せなかった。浅丘美月と彼女の叔母、加藤麻衣子、佐々木里奈、沢井あかり、女の関係者は五人いたが早河が聴取に立ち会ったのは浅丘美月と彼女の叔父夫妻と木村隼人だけだ。


『里奈とはあの事件の後に別れたんです。俺が美月の側にいるために……。全部俺が悪いんですけど、別れる時もかなりゴネていて美月に対しても好意的ではありませんでした』

『佐々木さんとは現在の交流は?』


隼人はかぶりを振る。彼は疲労の色が見える顔を伏せた。


『別れてからは一度も連絡していません。大学を卒業してからは何度か、サークルのOB・OGの飲み会がありましたが里奈は不参加でした』

『では佐々木さんが現在どうしているかはご存知ではないと?』

『内定をもらった就職先なら知っています。でも今もそこで働いているかは……』

『その就職先を教えてください。そこから佐々木さんを追っていけると思います』


 隼人の承諾を得て、早河は佐々木里奈の内定先の企業をメモ用紙に書き留める。依頼料の説明を受けて契約書にサインをした隼人は早河を見据えた。


『あの……もうひとつ、依頼してもよろしいでしょうか?』

『内容によりますが、話はお聞きしますよ』

『……沢井あかりの現状を調べて欲しいんです』


 3年前の雨の朝に見た彼女の顔が今も隼人の心の留め具に引っ掛かっている。


『沢井あかり……3年前の事件関係者のひとりですね。どうして彼女のことを?』

『沢井のことは俺の個人的な興味です。変な意味ではなく、3年前に彼女のことで気になることがあって』

『内容によってはお引き受けできないこともあります。ですが沢井さんの件には何か事情があるようですね?』


 隼人がただの興味本位で頼んでいるのではないことはわかる。木村隼人は3年前の事件のを掴んでいる。それは警察も掴んでいない何かだ。


『3年前に佐藤に殺された小説家の間宮誠治と沢井あかりは昔から親しい仲だったそうです。大学生だった俺達があの夏に間宮先生とイベントをすることになったのも、そもそもは沢井を介してのことでした。間宮先生の死体が発見された時、沢井は泣いていたんです。……


 早河もなぎさも、隼人が何を言っているのか一瞬理解できなかった。理解した時に襲われる寒気。それは人間の裏側を見てしまった時の寒々しさだ。


『沢井のその顔を見たのは俺だけだと思います。涙を流しながらも口元は笑っていた。無責任なことは言えませんが、あの顔は間宮先生の死を喜んでいるように感じました。間宮先生を殺したのは佐藤です。だけど沢井は間宮先生が殺されることを知っていたとしか思えない。3年前からずっとそれが引っ掛かっていて……』


 ただの興味本位であれば断るつもりでいた隼人のもうひとつの依頼は思わぬ方向に転がった。間宮誠治殺害に関しては早河も3年前から疑念を抱いている。


佐藤が間宮を殺したのは本人が上野警部の前で殺人を認めているのだから間違いない。

しかし、間宮の体内から検出された睡眠薬やペンションに仕掛けられた盗聴器の問題は棚上げされたまま、事件は被疑者死亡で葬られた。


佐藤には協力者がいたのではないか。それは早河も考えていたことだ。


『わかりました。沢井さんのことも調べてみましょう。ただし、アゲハの正体を掴むことを優先しますので沢井さんの件は少し時間はかかるかもしれません』

『かまいません。宜しくお願いします。昨夜、変な女に探偵に依頼しろと言われた時は半信半疑でしたけど、ここに来てよかったです』

『変な女?』

『バーで飲んでる時に女に話しかけられたんです。美月を助けたいなら麻衣子の友達が助手をしてる探偵に依頼しろって』


 早河は眉をひそめた。なぎさも困惑している。


『その女性は名前は名乗りましたか?』

『名前……なのかは知りませんが、“クイーン”とだけ。香道さんに聞けばわかると言っていたので、香道さんのお知り合いじゃないかと思ったんですが』


隼人がなぎさに目を向けた。なぎさは早河と目を合わせ、頷く。


『寺沢莉央だな』

「でもどうして莉央が木村さんをここに?」


二人のやりとりは隼人には意味のわからない会話だ。なぎさが隼人に向き直った。


「木村さんにここに来るように言った女性は多分、私の高校の友人です。彼女は麻衣子とも友達でした」

『だから麻衣子のことも……』


隼人は納得した表情だが早河となぎさは浮かない顔をしている。次は早河が口を開いた。


『その女性の名前は寺沢莉央。彼女はカオスのクイーンなんですよ』

『カオスって佐藤がいた組織の……美月に手紙を送りつけたアゲハって奴が関係している組織ですよね』

『そうです。寺沢莉央は組織の幹部。彼女が何故、木村さんに接触したのかはわかりませんが……』


 三人の間に無言の時が訪れた。アゲハの目的、カオスの目的、莉央の目的……現時点ではわからないことだらけだった。

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