2-6

 ――「これで彼氏とも別れたらいいのにね」

 ――「彼氏と雑誌に載ったりしてムカつくよね」

 ――「男はみんなあの子はそんなことしないって庇ってんだけど、なにあれ。私の彼氏も浅丘美月を庇うの」

 ――「彼氏以外の男にも私って可愛いでしょって色目使ってさぁ。男って可愛いぶりっこにコロッと騙されるバカだよね」

 ――「柴田殺したの浅丘美月って噂だよ。あの子のリップクリームが柴田が殺された研究室に落ちてたんだって」

 ――「売春して人殺しって最悪。もう学校来るなよ」



 噂話に耳を塞ぎたくなる。美月に向けられる眼差しは好奇、軽蔑、嫉妬。噂を囁くのはほとんどが女子学生だった。

その人々の中にはこれまで親しくしていた同級生も数人いて、皆が手のひら返しに美月を非難する。


(違う。私は柴田先生を殺してない。柴田先生と私は何もないっ!)


人間の怖さを思い知った。本当に怖いのは犯罪者ではないのかもしれない。本当に怖いのは、殺人をしない人殺し達。

ナイフや銃を用いなくとも人は言葉だけで簡単に人を殺せる。言葉の暴力で正義を気取って人を裁く者達こそ、犯罪者よりも恐ろしい。


『浅丘さん』

「松田先輩……」


所属するサークルの先輩の松田宏文と中庭で遭遇した。松田は経済学部の4年生だ。


『色々と変な噂流れてるね』

「先輩もあのチェーンメール見たんですか?」

『メールは俺のとこにも回ってきた。腹立ったからすぐに消したよ。詳しい事情はわからないけど俺は浅丘さんの人柄はわかってるつもり』


いつもと変わらない松田の笑顔に安堵したのも束の間、中庭を通る女子学生の視線を感じて美月はうつむく。


「私と一緒にいると、先輩まで悪口言われますよ?」

『俺は構わないよ。言いたい奴は言えばいい。自分が浅丘さんの立場にされたら、どんな気持ちになるかも考えられないようなバカがうちの大学に多いなんて残念だ』


わざと大きな声で発した松田の言葉を聞いた女子学生達がそそくさとその場を去った。それを見た美月は少しだけ笑顔になる。


「先輩、見かけによらず売られた喧嘩は買う派ですか?」

『まぁね。こんなことしかできないけど、出来る限り力になるから。サークルのメンバーもみんな浅丘さんを信じてる』

「ありがとうございます。……やだなぁ。朝から泣いてばっかり」


 泣き笑いする美月に無意識に伸ばしかけた手を彼は理性で止めた。


『彼氏にはこの件は話したの?』

「はい。心配だから学校まで迎えに行くって言い出すんですよ。あっちは仕事で忙しいのに」

『お、さっそくノロケ出たねぇ。過保護な彼氏でいいじゃないか。でも彼氏もわかってくれていて良かったね』


今、美月の頭に思い浮かんでいるのはおそらく彼氏の顔だ。わかっている。わかっていることなのに。


『じゃ、またサークルの会合で』

「先輩、本当にありがとうございました」


 中庭の小道を行く美月の後ろ姿を見送って、松田は肩を落として踵を返す。その視線の先では、サークルの後輩の橋本がベンチに座って本を読んでいた。


『いるならいるって言ってくれ』

『一応、ここで静かなる主張はしていたつもりでしたよ。先輩が浅丘さんしか見えてないから俺に気付かなかっただけです』


橋本は苦笑いして、また本に視線を落とす。彼が読んでいるのは3年前に逝去した推理小説家、間宮誠治まみや せいじの遺作だ。


『やっぱり俺は“良い先輩ポジション”なんだろうな』

『無理して“良い先輩ポジション”にいなくてもいいんじゃないですか? あれだと一生、浅丘さんは気付きませんよ』

『気付かれない方がいいんだよ』


橋本の隣に座って松田は溜息をつく。橋本が本の裏表紙の著者近影を眺めて呟いた。


『間宮誠治って殺されたんですよね』

『もう3年くらい前になるか。それって間宮誠治の生前未発表の小説だろ?』

『そうです。本人はシリーズ化を予定していたみたいですね』


 2年前の2007年に発売された間宮誠治の遺作は【混沌の帝王】と名付けられた上下巻完結の作品だ。橋本が手にしているのは下巻だった。


【混沌の帝王】の原稿は未完で、書きかけの原稿を間宮の死去後に間宮と親交が深い推理小説家の柏木かしわぎみやこが完成させた。

この作品は共作として著者欄には間宮誠治と柏木都の二人の作家の名前がある。


『先輩は読みました?』

『目は通したけど……なんだかな。面白くはあるんだが、作風がガラッと変わったって言うか。間宮誠治はこれまでマフィアやヤクザものは扱わなかったから、いきなり犯罪組織の話が出てきて驚いた。上巻のラストからの展開は柏木都っぽいしな』

『犯罪組織って言われてもピンと来ませんよね。柏木都は社会派ミステリー作家って言われてるだけあって味付けは上手いですけど、間宮誠治の遺作って言うより完全に柏木都の本になっていますよね』


 混沌の帝王。それがであるか、知らない者は知らない。知っている者は知っている。それだけのこと。

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