鮮花の黴

夏鴉

鮮花の黴

 昼日中の列車は随分と空いていた。

 人の疎らな車内。ボックス席には私と、それから一人の娘が座っている。知り合いでは無い。其の筈である。

「御向かい、失礼します」

 鈴の鳴る様な声で娘は一言告げて、宛ら嘗てよりの知り合いかの如く私の目の前に腰掛けた。

 薄気味の悪い娘である。

 真白なワンピースを着て、長い黒髪を肩に流した、その見目は整っている。作り物かの様な可憐な姿である。其の顏も然り。然し乍ら、表情は固めた様な微笑から一寸も動かず不自然極まり無い。黒々とした眸ばかりがひたと此方を見据えて逸らされる事が無いのも居心地が悪い。

 否。

 そんな事は如何だって良い。

 そんな事は、全て些事だ。彼女の手の中の其れに比べれば。

「驚かれていらっしゃるのですね」

 作り物の笑みを動かさず、声ばかりが愉快そうに揺れた。

 其れはそうだ。そんな声すら憚られる雰囲気を、彼女は纏っている。手の中の物が、尚更に雰囲気を高めて仕方が無い。

 首である。

 私の眼前の娘は、膝の上に女の首を抱えて微笑んでいた。

「これは姉様の御首なのです」

 ――言われてみれば、其の首の顔は彼女に似通っている風である。死んでいるが故にすっかり抜けているのだろう血の色の所為で、彼女以上に人形めいた、首。

 本物だろう。根拠も無いのに、私は直感した。此れは、本物の、首である。膝からも流れ落ちようかという其れの長い黒髪を柔らかく撫ぜ乍ら、娘は平坦な声で、少しも変わらぬ表情で言う。

「あたくしと姉様は、其れは其れは仲の良い姉妹で御座いました」

「姉様は美しく、可愛らしく、誰からも好かれる人でした」

「少々頭の足りない所の有り、ロマンチストのきらいも有りましたが、ええ、可愛らしいものでした」

「其の代わりにあたくしが賢ければ問題は有りませんでしょう?」

「あたくしが姉様を慕えば、誰もが褒めて下さるのです」

「姉様も、自分より賢いあたくしを良く頼って下さったのです」

 流暢に、だのにぶつ切りに彼女は語る。如何に姉様と自分が仲睦まじかったか。能面の如き微笑で、揺るがない穏やかな声色で語り掛ける。

「姉様は、困った時にはあたくしに物を聞くのです。如何したら良いかと、愛らしい顔を不安に曇らせてあたくしに問うのです。姉様は自分で物を考えるのが余り得意で無かったから」

「あたくしは当然、適切な回答を姉様に差し上げました。こう答えるのが、姉様にとっての最善だろうと、あたくしは姉様の指標で在り続けました」

 ねえ、姉様?

 態とらしい笑声を零して、彼女は姉様とやらの髪を手で梳いた。飯事の様なたどたどしさ。ちぐはぐで、見ているだけで寒気を覚えた。頭が痛い。此の場から立ち去りたい。しかし、彼女の少しも逸らさぬ眸が私を席に縫い留める。

「そんな姉様が、或る時を境にあたくしを頼らなくなりました」

 ふと、彼女の手が止まった。微笑は固まって動かない。

「あんなに、いっそ他の人なら厭になってしまいそうな位にあたくしに頼って来ていた姉様が、気付けば何日もあたくしに問いを寄越してくれない」

「あたくしは怖くなりました。あの姉様が、とうとう自分で物を考え、解決させる事を覚えてしまったんじゃあないかしら、と恐ろしくなりました。……尤も、問い掛け以外では姉様は相も変わらずあたくしを構って下さいましたから、そんな不安は直ぐに消えてしまいましたが。では何故?」

「姉様に、先生が出来ていたのです」

 微笑。

「新しく学校に赴任してきた男の教師。姉様の問い掛けにもするすると答えてみせる男。姉様は、そんな先生をいたく気に入った風でした。あたくしとは違う答えを寄越すのが面白かったのでしょう。姉様は、如何やらその先生に恋をしている様子で御座いました」

 そうでしょう?

 さらりと黒髪を揺らし乍ら、彼女は姉様の首を覗き込む。顔は判らない。元に戻る。表情は微笑。

「あたくしに一つの相談も無く、姉様は先生に溺れて行きました。先生と距離を詰めるべく、様々な手を弄した様でした。如何してあたくしが知っているか? 姉様の事ですもの、あたくしが姉様の事で知らない事なんて御座いません。だって、あたくしは姉様の妹だもの。あたくしは姉様より賢くなくてはいけません。ですから、知っていました。姉様が如何に恋に惑っていたって、姉様の恋は叶わない。相手が悪いんですもの。先生と生徒だなんて、体裁も宜しくない。先生の側も、適当にあしらって其れで御仕舞い。其うに決まっておりました。決まっていたのに」

 彼女が瞬きする。黒瞳の向こうに、何かが揺らめいた様な。

「何を思ったか、姉様の恋は叶ってしまいました。先生とやらは余程の馬鹿と見えました。姉様は見目は良かったものですから、惑ってしまったのかもしれません。ロマンチストの姉様は密やかにあたくしには其の恋のどれだけ美しく、不滅であるかを狂った様に説きました。あたくしは姉様の優しい妹ですから、にこにこと聞いておりました。先生の愚かしさには吐き気を覚えておりましたが」

 微笑が、引き攣った様な。

 頭が痛い。

「先生というものは、定期的に場所を移らなくてはならないそうですね。姉様の恋人と成った先生にも其の時が訪れました。姉様は涙を呑んで別れを受け入れました。其の時に先生に言われたそうです。一年の後に必ず、迎えに来ると。姉様は、莫迦な姉様は、其れを信じました」

 彼女の目が細められた。憎々し気に。

「それからが、大変でした。幾らか時間の経った後、姉様が子供を身籠っている事が分かったのです」

 大騒ぎで御座いました。呆れた様に彼女は笑った。

「あの姉様に、何処の馬の骨とも判らぬ子供がいるだなんて。それは、もう。誰も彼もが嘆き悲しみました。姉様だけが、莫迦みたいに先生は戻って来るのだと、愚直に言い続けていました。だから、何の心配も無いのだ、と。だから、産ませてくれ、と。莫迦な姉様」

 そんな事、誰が許してくれるって言うのでしょう。

「子供を下した姉様は、酷く衰弱しました。美しい御顔は其の儘に、身体ばかりが痩せ細っていく様は、憐れでなりませんでした。でも、其れでも信じておりました。先生が、迎えに来てくれると。本当に、莫迦な姉様」

 結局、五年間、姉様は待ち続けたのです。

 そして終ぞ、先生は現れませんでした。

「姉様は、限界を迎えました。或る日、あたくしに言いました」

 ねえ、私を先生の所へ連れて行って。

「あたくしは、心苦しく思いながら断りました。幾らあたくしでも、あの男が何処にいるかなんて、見当もつきませんでしたから。可能な限り優しく諭して差し上げました。あんな男の事は忘れなさいと。あの男は姉様に嘘を吐いたのよ、と」

 其の次の日に、姉様は自殺なさいました。

 彼女の笑みが歪に深くなった。

「姉様は、堪えられなかったのです。あたくしは、其れを想定し切れなかった。本当に、後悔しました。あたくしが、失敗するだなんて。だから、と、思ったのです」

 ぎらぎらと、血走った目が、此方を。

「せめて、姉様の御願いを叶えて差し上げねば、と」

 だから、あたくしは姉様の御首を連れて旅をしているのです。

「でも、其れももう終わり」

 そうでしょう?

 彼女の口の端が吊り上がった。

 頭が痛い。

 そんな事、覚えていない。

「御遊びの心算だったのでしょう。綺麗な女でしたもの、姉様は。一時の御遊び。だから、此れっぽちも覚えてはいなかった。でしょう? こんなに、姉様は信じていたのに」

 ほら。

 差し出された首を、受け取ってしまう。そうする事しか出来ない。

「今も先生をなさっているのですね。今も女を食い物に? きっとそうでしょうね。そうに決まってる」

 彼女がゆらりと立ち上がり、私の前に。

 焦点の合わない目が、ぎろりと私の方を向く。血管が絡み合って透けている白目。

 嗚呼。

「やっと見付けたわ、此のケダモノ」

 此の女は、狂っている。

「姉様が御待ちよ。沢山話もしてあげる。何たって、五年以上も離れていたんだから」

 手に抱えさせられた首が、生温い。

「もう良いでしょう。あんたは、あんたの罪を雪がなきゃ」

 いやに、柔らかい肌に指が沈む。

 死んでいるのに。

 其の筈だ。

 生きている筈が無い。

 頭が痛い。

 目の前の女は、ぞっとする様な微笑みを浮かべていた。

「自業自得よ、阿婆擦れ」

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