心象風景
新月
第1話朝のこない街
この街には光が射さない。
僕がここに来た時、案内してくれたのは東(あずま)という、黒い服を着た青年だった。彼は僕がくるのを知っていたようで、薄暗がりから現れると、笑顔で歓迎の言葉を述べた。
街灯はなく、月も星も出ていない。
けれど辺りはほんのりとした暗闇で、東が優しい笑顔を浮かべているのは分かった。
「ようこそ、『街』へ。僕は東。ここの管理者です。どうぞ、あなたの家に案内しますよ」
住宅地なのだろう。道の両側に家が並んでいる。しかしどこにも人の気配はなく、静かだ。
足音は僕ら2人だけ。
道は舗装されておらず、歩く度にざりざり砂が軋む音がする。
東は途中で1度立ち止まり、少し離れたところに建っている家を指差した。
「あれが僕の家です。何か気になることがあったら言って下さい。できることならしますから」
再び歩き出すも誰にも会わず、ここには他に住人はいないのかと考え出した頃、道路脇のベンチに、女性が座っているのが目に入った。
まだ若い。肩から大きなショールを掛けている。
東は挨拶するでもなく、目を遣ることもなく、黙って前を通り過ぎた。
僕はちらりと女性を見たが、ぼんやり遠くを眺めていて、目の前を人が通ったことにも、気付いていないようだった。
途中でもう1人見掛けた。壮年の男性で、公園のブランコに腰掛けている。東はこちらも完全に無視した。もっともブランコは遠かったから、気付かなかっただけかもしれない。
住宅地を抜けると大きな通りに突き当たった。様々な店がある。どこにも店員の姿はなく、ただ整然と並べられた商品だけが、照明を反射していた。
東はここで、たいがいの物は手に入ると言う。
近くにパン屋が1軒あった。トレイの上に綺麗に並べられたパンを見ていると、東が視線に気付いたようで、美味しいですよ、と笑った。
僕の家は大通りから一本入ったところにあった。
玄関の横に大きな木が1本あり、入口に被さるように枝を伸ばしている。
僕は東と一緒に中を見て回った。どこもよく掃除され、誰も住んだことがないように傷一つない。東は気に入らなければ他の家を紹介すると言ったが、僕はここが気に入った。
2階の窓から外を見る。
1階も2階も、窓は大通りとは反対についている。
辺りは沼のように暗かった。近くにも家があるはずだが、どこにも明かりは点いていない。
ずっと先まで、薄暗がりが広がっている。
街には時計もカレンダーもない。空の様子も、外の景色も変わらない。太陽が昇ることも、玄関の木が葉を落とすこともない。
ただ春か秋の初めのような心地よい気候が、ずっと続いている。
住人はほとんどいないらしく、大通りに出ても、誰かと行き合うこともない。
ここに来た時に会った2人、若い女性と壮年の男性が、いつも同じ場所に座っているだけだ。
僕はほとんど家に閉じこもって暮らしていた。
毎日、目が覚めると窓を開け、空を見上げる。月も星もない、真っ暗な空を。それが日課だった。
けれどある日、空を見るより先に、地上へ目が吸い寄せられた。
薄暗がりの中に、小さな白い光が1つ浮かんでいる。まるで、沼に1片の星が落ちたように。
人によっては綺麗だと思うかもしれない。
でも、僕は酷く動揺させられた。明かりは近くの家から漏れている。誰か、新しい住人が引っ越してきたらしい。
僕は窓から離れた。
「それは僕にはどうしようもないですね」
できることならすると言ったくせに、東の返答はにべもないものだった。
僕は東の家に来ていた。
会うのは初日に、街を案内してもらって以来だ。東は優しい笑顔で僕を招き入れたが、あの光をどうにかしてくれという頼みは、困った顔で却下した。
「僕らは住人の内面には干渉できないのです」
東は申し訳なさそうに言う。
「でも、そんなもの、放っておけばいずれ消えますよ」
僕は帰りに、大通りでカーテンを買った。
以前東が美味しいと言っていたパン屋で、1人の老婆がパンを選んでいるのが目に入る。
見たことがない人だ。あの人が引っ越してきたのかもしれない。そう思って近付いたが、僕がパン屋に着く前に選び終わり、店を出てしまう。
後を追ったが、何処へ行ったのか、もう影さえ見えなかった。
同じ頃2人の住人が姿を消した。ベンチに座っていた若い女性と、ブランコに座っていた壮年の男性が。
背景のように動かなかった2人は、気付いた時には既にいなくなっていて、いつ消えたのかも分からない。言葉を交わしたことさえないが、常にあったものが欠けた景色は僕を動揺させる。居心地の良い閉じた暗闇に、ギラリと光るメスを入れられたように。
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