第2話 ドキドキ朝チュンイチャラヴボイス


「お兄ちゃん起きて。朝だよお兄ちゃん」


「んあ?」



 俺を呼ぶ声と身体の揺れで目が覚めた。

 まだぼやける視界でなんとなしに視線を上へ向けると、既に明るくなった青空が窓から見えた。

 窓を閉めても貫通してくる喧しい蝉の声も感知。ツクツクボウシが家の壁面に張り付いていやがるな。うっさい。


「どこ見てるのー?」


 上機嫌な声と同時、頭が掴まれて無理やり斜め横を向かされる。意識は部屋の中へ。なんだか咲季の声がすると思っていたが、そういえば昨日こいつと添い寝したんだった。

 目の前に現れたのはベッド横に中腰になって俺を覗き込むようにしている咲季。あからさまにテンション高めである。

 俺の顔を見つめてにへーと笑い、人差し指を伸ばして鼻を突くと、


「えへへ、ねぼすけ」

「………………そんな寝てた?」


 枕元のスマホを取って時間を確認。八時五分。普通の時間だ。


「全然じゃん。むしろ咲季はいつ起きたんだよ」

「六時」

「はや」

「普通だよ。お兄ちゃんが大学生基準なだけ。むふふ、もう」


 しょうがない人ねとでも言いたげな慈母じみた微笑みを浮かべる咲季。

 稀に見る超上機嫌である。いつも以上にへらへらしてるよ。絶対こいつ俺が寝てる間なんかしてたろ。少なくとも写真撮ったろ。何とは言わないが。


「…………………………」

「ん?」

「…………………………」

「何してんの?何もじもじしてんの?」

「……ちらっ…………キャ///」

「あ?」


 急な奇行。どうしたこいつ。チラチラ俺を見ては目を逸らすのを繰り返している。なんの儀式だ。


「しちゃった、ね?」


 静観していたら、なんか言い出した。


「は?」

「あんなに激しく求めてきてぇ……びっくりしちゃったけどぉ、嬉しかった、よ///」

「…………」

「けどあんなの毎日されちゃったらぁ、私の身体保たないかもぉ♡」

「…………」

「コラ♡ そんな子犬みたいな目で見つめてきてもダメなんだか…………ちょっと待ってその振り上げた手を降ろしましょう人類には話し合いという平和的手段がありましっでぇ!」


 ベッド横でくねくねしていたアホが逃げようとするのを捕まえて後頭部にデコピンを叩き込んでやった。本当なら額にやりたかったのに。


「ありがとう目が覚めた」


 言って伸びをする。


 後頭部を押さえながら振り返る咲季。恨めがましい視線が刺さった。


「……女の子に手をあげるなんて最低だよ。アホ。バカ。DV彼氏」

「アホはお前だ。こうなるの分かってんのにやるな。ていうかデコピンだし。そんなに強くやってないし」

「自分の暴力を正当化しないでくださーい。弱かろうが強かろうがデコピンだろうが暴力は暴力ですー」

「お前が言う?」


 今までを思い返すに絶対こいつの方が俺をぶっ叩いてきてると思うんだけど。


「はぁー、せっかく私が世の男子垂涎すいぜんのドキドキ朝チュンイチャラヴボイスを披露してあげたってゆーのに、ありがたみが足りないよ。本当に付いてるもん付いてんのかぁ?ええ?」

「無自覚セクハラおじさんボイスどうも。股間に手を伸ばす仕草まで体現しなくていいから」

「かぁー、ノリわるぅー。今のでお兄ちゃんのモテモテポイントは大幅ダウンですわー」

「知るか。そんな頭悪そうなポイント要らん」

「え、それって私がいるからって……こと?」

「はは」

「あの、片手間に反応するくらいなら無視してくれた方がましですお兄様。スマホしまえ」


 まともに反応したら小学生みたいな揚げ足取りが始まるから嫌なんだよ。否定しても「照れちゃってー」とか絶対言う。


 ……まあいいや。こんな不毛な会話よりも有意義な話を振ろうじゃないか。


「咲季」

「な、なに?」


 割と真面目な声で言ったからか、咲季が身構える。怒られる前の子供みたいな縮こまり方。青柳医院長思い出すな。不倫をネタに赤坂さんに脅されて終始キョドっておられた可哀想な姿を思い浮かべて内心苦笑しつつ、


「そろそろ一緒にどっか行こうか」


 言った。

 咲季はきょとんとして数瞬固まった後、見る見るうちに頬を赤らめて期待に満ちたキラキラとした目を向けてきた。


「デート?」

「まあそういうやつ」

「やたー!デート、デート!」


 小躍りした後、俺の右腕を掴んで左右に振る。テンション高ぇ。


「いつ?いついつ?」

「早ければ一週間以内とか」

「一週間とか言わずに今日行こー!」

「は?今日?」


 日雇いバイトでほんの少しは貯まったから今すぐ行ける金銭的余裕はある。夏休みに入っているから時間の余裕もたっぷりだ。

 だから行けなくはないが、気が早いなこいつは。コンビニでも行くようなノリだぞ。


「いいけど、どこか行きたい所あんの?」

「はいはーい!水族館とか行きたいです!イルカショー見たい!」

「イルカショーか、楽しいのあれって?」

「見たことないから行きたいの!」


 イルカショーか。なんだかんだ俺も一回も見たことないな。そもそも水族館自体ここ十数年は行ってないと思う。アリだ。

 だが、ここで思い出す事が一つ。


「水族館行くのは大丈夫だけど、ちょっと懸念があるんだよ」

「……お父さんとお母さんがなんて言うか分からない?」


 察し良いな。サトリかよ。

 頷く。


「退院は許してくれたし、市内なら出かけても何も言わないけど、電車で一時間くらいの遠出だとどういう反応されるかがなぁ。都心行かないと水族館無いから、ついて来るとかは普通に有り得そう」

「それはそれで私はいいけど」

「最悪キレるとかもありそうなのが問題なんだよ」


 考え方がすぐ変わるなんてそうそう有り得ない。

 長く生きて欲しいからリスクを冒して欲しくない母さん達とリスクがあっても楽しい時間を過ごしたいと思っている咲季とでは真反対の考え。180度考えを変えるなんて時間をかけないとできっこないんだ。

 今母さん達は感情を理性で抑えて無理矢理納得させている状態だと俺は思っている。だって俺達は強制的に咲季を退院させただけで、決して母さん達を納得させたわけじゃないのだから。

 和解では無く停戦が近い。

 むしろ今の今まで外出が許されているのが不思議なくらいである。


 思っていると、咲季は一つため息をついて、


「お兄ちゃんって、本当に鈍感だよね」

「あ?どういう意味?」


 怪訝に思って眉を寄せると、咲季は俺の勉強机の椅子に座って息を吐き、


「私の気持ちもお兄ちゃんの気持ちも、ちゃんと届いてるよ」


 微笑んだ。包み込むような、柔らかい表情。


「いや、なんでそんなこと……」


 俺はと言えば咲季とは反対に狼狽えていた。

 俺の気持ちが届いてる?

 そんなはずが無いだろう。だってあれだけ必死になって気持ちをぶつけても母さんは敵意を向けてきた。否定した。それが変わりようの無い事実のはず。


「きっかけは結愛ちゃんと菊池さんがお兄ちゃんの過去の誤解を解いてくれたからだと思う。それがあった後、ちゃんとお兄ちゃんが言ってくれた事を反芻してくれたんだよ。考えて考えて、今はそれを尊重しようって思ってる。その証拠に、私が出かけても何も言ってこないでしょ?」



 そうなんだろうか。

 今までがあんな感じだったし、はっきりと正面切って言われてもいないから現実感が薄い。俺の言った事を反芻ってい……ん?


「俺が言ってくれた事って、何の話?」

「え?ああ、んふふえっとね、なんだっけ。〝あいつの側で笑って一緒に楽しい時間を過ごしたい〟みたいな」


「……………………ん? んん? あっ!?」


 もしかしてそれ、遊園地行った後に俺が母さんに言ったやつか!?

 そんなような事言ったような気がする。気がするが……!


「な、なんで、お前が知ってんの?」

「なんでって、お母さんが言ってたから。「あの時の秋春の言葉を最近ずっと考えてる」って」

「え」

「だから言ったでしょ?ちゃんと届いてるって」


 そんな事を母さんが?

 にわかには信じがたかったが、咲季の目は真剣そのもの。俺を気遣って嘘をついている様子は無い。

 だけど今までの経験から母さんが心を開くような発言をするなんてあり得ないと思ってしまう。


「……そういうのは俺に面と向かって言ってくれよ」


 結果、不貞腐れたような微妙な反応になってしまった。


「それはそうなんだけど、あれだけの事をお兄ちゃんにしたんだもん。今さら面と向かって普通に話せって方が無理だよね」


 さすがは咲季といったような言葉。こいつは普段ガキみたいなアホだけど、この心の広さからくる優しさは大人顔負けである。


「こういう時お前って冷静だよな」


 素直に感心し言った俺の言葉をどう受け取ったのか、咲季は慌てたように手を振って、


「あっ、ち、違うよ!私怒って無いわけじゃ無いからね!?もちろん、お父さんもお母さんにも怒ってる!許したくなんてない!未だにお兄ちゃんへ謝っても無いし!」


 不満げなへの字顔。

 中学時代の最大の悪評が誤解であったと二人には伝わったはずだが、それについての言及は未だ無かった。

 思う所はある。だが、こういう態度は今更だったから一々気にする事も無い。

 長年続いたこの関係を普通の家庭のように戻すのは時間がかかるだろうから、今は咲季が自由に動いてる事にとやかく言わないだけで十分だった。

 だから咲季もそこまで気にしなくて良いんだけど……こいつは色々と考えちゃうんだろうなぁ、自分の事以上に深刻に。


「けどね、こういうのって許さないと、ずっと続いちゃうから。最後には皆で笑っていたいもん。それに当のお兄ちゃんが怒ってないんだから」


 うつむいて握った自分の手を見つめる咲季の表情は読めないが、その声色から似合わない真面目な顔をしているのは分かった。


「……やっぱ凄いなお前」

「なにが?」

「自覚ない所も含めてな」

「?? よく分かんないけど、とにかくそういうわけだから、ちゃんとどこに行くかとか、何時に帰ってくるとか伝えれば文句は言われないと思うよ」


 予定してた時間から少しでも遅くなったらキレられるかもなと要らん想像をしつつ、


「じゃあ今日行くか?」

「うんうん!行こ………あ」


 結論を出したところで、咲季の嬉しそうな表情が固まった。





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