第三十八話 あなたが許せなかったの

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 ――その後どうなったのか、あまり覚えていない。

 多分、満足してもらうまで彼らの言われるがままに従ったんだと思う。


 それからの数日はひたすらに、ひっそりと過ごした。

 講義中も休み時間も浴びせかけられる視線。ゴミをぶつけられたりする程度の、真綿で首を絞めるような嫌がらせ。色々とあったが、それに一々感傷的になる気力さえ湧かなかった。


 ――疲れた。


 もうそれだけだった。

 惰性で講義に出続け、ついにテスト期間となり、それもほぼ全て終わった。

 昼夜共に無心で勉強をしていたからか、かなりの手応えを感じた。

 だけど、そんな事で一喜一憂なんてできなかった。空虚さと脱力感だけが残った。


 ……そんな日々が続いて、最後のテストが終わった7月26日。

 大学の正門近くにある、数ある校舎の中で一番大きい校舎の、屋上前の階段。

 そこで俺はコンビニ弁当を広げて食べていた。大学内の食堂やカフェでは落ち着いて食事も摂れないだろうから、人気が無い場所を探した結果がここだった。

 とにかく今は一人で居たかった。

 大学の屋上なんて学生は立ち寄らない。それどころか職員だって滅多に近寄らないだろう。このリノリウムの床と階段以外何も無い空間には不気味なくらいの静けさが充満していた。

 窓も無くて薄暗く、空調も行き届いていないため蒸し暑い。外は今30℃を優に超えていたはず。自然と体中に汗が滲んだ。


 頬を流れる汗が滴っても気にせずに、弁当の中身を機械的に口に運ぶ。



 ――『人殺し!』



 この前言われた言葉が、ふと頭をぎった。

 だるような暑さと、耳に叩きつけられる罵詈雑言。

 そこから思い起こされたのはやはり、中学時代の最悪な思い出。

 振り向けばすぐ後ろにあって、振り切ろうとしても振り切れない。

 否応無しに、俺が誰にも認められないごみだと思い知らされる。


 ――どうしてこんな事になってるんだろうな。


 重苦しい無力感が身体中に纏わりついていた。



「中学の時と同じね」



 と、

 突然誰かの声が耳に入った。

 試験もほとんど終わって大学に来ている学生の人数が少ない今、絶対に誰も来ないと踏んでいたため、それは不意打ちだった。

 身体を強張らせて視線を少し上げると、階段の下に良く見知った顔があった。


「なんで私が悪いって言わないの?」


 はっと息を呑んでしまいそうになる美貌と長い黒髪。

 赤坂さんだ。

 ロングスカートをはらりとはためかせて立ち止まり、相変わらずのゆったりとした所作で俺に視線を合わせる。


「私が許せない事をしたから、アキ君は怒っただけなのに」


 だが、いつもの貼り付けたような笑顔はそこに無かった。で俺に問いかけている。

 今回俺の身に起きている件について言及しているのだというのは訊かなくても分かった。


「言ったところで、あんたの厚い人望の前じゃ無意味だろ。戯言ざれごとだって一蹴されるのは目に見えてる」


 動揺を隠すように皮肉ってみせるが、俺もいつもの調子は出なくて、ボソボソと情けない声になってしまう。


「人望……か」


 赤坂さんは呟くと、肩に掛けた白色のトートバックからおもむろに何かを取り出した。


「……これ」


 掲げた赤坂さんの手。

 そこには淡い緑色の……おそらく手紙用の封筒が握られていた。

 それを開くと綺麗に畳まれた便箋を広げ、昆虫のような無感動な瞳でそれに目を向ける。


「私へのラブレターなんだって。今時珍しいわよね。中身も、凄く頑張って書いたんだろうなって、伝わってくるみたいに丁寧。私の普段の仕草とか、落ち着いてる所とか、皆に優しい所が好きなんだって」


 そう他人事のように呟くと、手紙を両手でゆっくりと、


「お、おい……」

「要らない」


 潰された紙は地面へと落ち、追撃するようにそれをヒールの踵で踏む。

 執拗に、害虫を殺すみたいに。


「人望も他人からの想いも、要らないわ。私に宛てられた気持ちなんて、気持ち悪い。塵屑ごみくずよ。私が欲しいのはもっと純粋で綺麗なもの。私が見ていたいのは、アキ君みたいな人なの」


 相変わらずわけの分からない事を……。

 だが、いつもと様子がおかしい。

 こんなに攻撃的な面を見せるなんて今まで無かった。何が赤坂さんをそうさせているのか。


「今日も、嫌がらせに来たんですか」


 それがなぜだか気になって、俺は視線を合わせずにボソリと会話を繋いだ。

 赤坂さんは「違うわ」と小さく頭を振って、


「二つ用事があってね。まずは……咲季ちゃんの今の様子、アキ君は気になるかなぁって」


 思わず勢い良く腰を上げそうになって、膝に広げていたコンビニ弁当が落ちかける。慌ててそれを押さえて座り直した俺に、赤坂さんは満足そうに微笑んだ。

 目の前にかかったもやが一瞬晴れるような感覚だった。

 だって咲季とは二度と関わりを持てないと思っていたから。


「……あいつ、体調は大丈夫なんですか」


 姿勢が前のめりになってしまう。

 全部どうとでもなればいいと思い始めていたのに。


「ええ。体調に問題は無いみたい。ただ、」

「ただ?」


 握る拳に緊張から力が入る。


「アキ君に会えなくなって落ち込んでるわ。スマホも取り上げられて連絡も取れなくて……相当ショックだったみたいね。」

「そう、ですか」


 体調に変わり無くて良かったと思う気持ちと、一抹の疑念が心の内を過ぎていった。


 俺なんかに会えないだけで落ち込むのだろうかと。

 咲季の好意は誰からも認められない俺を哀れんだゆえの嘘で、実際はなんとも思っていない。そう考えたほうが自然だ。

 だってそうだろう。俺は周りに害を与える側の人間なのだから。そんな人間が誰かに愛されるなんておかしい。馬鹿げてる。


「けど、これでやっと分かってくれたんじゃないかしら。親だからと言って自分の気持ちを理解してくれるわけじゃないって」

「どういう事ですか」

「咲季ちゃんね、アキ君のためにおじさんとおばさんの考えを改めさせようって必死に訴えてがんばったのよ」


 遊園地で言っていた事、本気だったのか。

 本当に……優しいやつだ。


「結果は残念だったけれどね」


 俺が家を出る事になったという状況が答えだ。

 別に不思議だとは思わない。そもそも他人の中にある、長い年月をかけて積み重なった何かをすぐに変えられるわけがないのだ。〝もしかしたら咲季なら〟という気持ちもあったが、〝無理だ〟とも同時に感じていた。

 変えるためには相当なが要る。


「おじさんとおばさんがああいう人間だって思い知った咲季ちゃんはこれからどうするのか、見ものね」


 赤坂さんはわずかに口角を上げた。

 また、いつもは見せない顔。調子狂う。


「あんたは何がしたいんだ。いつもそうやって俺に絡んで、わけ分かんないんだよ」

「私はアキ君達みたいな、誰かのために必死になれる綺麗な人を観察するのが好きなの。そんな人がこんな時はどうするんだろう?どんな事を思うんだろう?想像しながら賽の目を投げるのよ」


 つまりは嫌がらせに対する俺達の反応を見て嘲笑ってるって事だろう。


「それと、もう一つ」


 思った時、赤坂さんが階段に足をかけながらぽつりと言った。


「私はね、アキ君。あなたが許せなかったの」


 予想外の言葉。

 許せない?なんの事だ。

 俺が赤坂さんに何か酷い仕打ちをしたって言うのか。主観でしかないが、この人がこんな風に変わってしまった以前はそんな事無かったと思う。


「だけど大好きで、大切な人。そんな矛盾の上にいた存在がアキ君。だからどうしてもアキ君にちょっかいをかけちゃうのよ」

「なんですかそれ。俺はあんたに恨まれるような事……」


 階段を上って俺の前まで来た赤坂さんの手にいつの間にか握られていたもの。

 それは少し古びて、白の部分が薄茶色に変色した大学ノートだった。

 上から拳銃でも突きつけるように目の前に差し出されたそれ。一瞬怯んだが、どうやら「受け取れ」という意図だと気づき、手に取った。


 特筆する点も無いただのノートだ。

 なぜこんなものを俺に渡したのか、意図が読めなかった。


「これは、私の友達の日記よ」

「は?」

「読んでみて」


 これが俺を恨む理由と関係あるのだろうか。

 見下ろす赤坂さんの有無を言わせない雰囲気に圧され、言われるがままにページを捲った。


 時が止まったように感じた。


 何の変哲もない、知らない誰かの日記だと思っていた。けど、違った。


〝片桐秋春君〟


 何故か、後半のページに俺の名前が記されていた。


 なんで俺の名前が?

 文章に本格的に目を通す。

 疑問はすぐに解消された。


『美山さん達に隠されてしまった物を探す。とても悲しかったけど、がんばった』

『その日とんでもない人と出会った。なんと学校で有名な不良の片桐秋春君!』


 綺麗に揃って並んだ几帳面な文字列から、あの日の情景を思い出すのは容易だった。


「これ……まさか」


 見上げた俺に赤坂さんは頷いた。


「中学生の時の私の友達だった子。私と、多分アキ君にとっても絶対に忘れられない子」


 込み上がった感情を抑えているのか。

 赤坂さんの声が、震えているような気がした。



「霞ちゃん――菊池霞ちゃんの日記だよ」



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