第十二話 お呪い


「ただいま」


 外の夜闇に溶け込んだかのような室内には澱んだ空気が停滞していた。


 片桐俊名かたぎりとしなは溜まった疲れを吐き出すように息を吐き、玄関の電気をつけ、革靴を脱いだ。

 廊下を抜け、リビングの扉を開く。

 廊下の電気が差し込んだだけの薄暗い室内。

 俊名はリビングのシーリングライトのスイッチを入れた。

 白色の光に照らされたリビング。


「……おかえりなさい」

「また君は、そんな所で…」


 下方からの声に俊名は顔を顰めた。

 鞄をソファーの横に立てかけ、ワイシャツのボタンを一つ外し、ネクタイを緩める。次いで、視線を床へ。

 そこには床に寝そべっていた身体を起き上がらせた彼の妻――片桐明菜かたぎりあきながいた。

 寝巻き姿のままなのを見るに、朝からずっとこの調子なのだろう。俊名は苛立ちを抑え切れず、視線を厳しくさせる。


「…ごめんなさい」


 項垂れるようにして、明菜は謝った。


「あのなぁ、いつまでもそんな事じゃ困るんだ。君は僕の妻なんだよ。家庭を任せると言った以上、僕も精一杯働く。だから君も最低限の家事はこなしてくれ、それが誠意ってものじゃないのかい?」

「ごめんなさい、ご飯は、作ってあるから」


 視線を移す。テーブルの上には確かにカレーと福神漬けがぽつんと置いてあった。

 今の明菜にとって精一杯の料理。しかしそれは元々料理好きだった彼女からすれば品数が少なく、よって俊名はそれを怠慢とみなした。

 口調がより、強くなる。


「明菜の気持ちも分かるが、もう半年だ。いい加減気持ちの整理をつけてくれ」

「それって、どういう事ですか」


 俊名の言葉に、明菜が強い反応を示した。

 俯いていた顔を上げ、彼を睨めつけるように見上げる。


「咲季がいなくなるって言いたいんですか…!?」


 枯れた声で、幽鬼のように。


「そういう事を言ってるんじゃない。大人として、親として、最悪の事態を考慮して、ちゃんと咲季と向き合わなければならないと言っているんだよ」

「そんなの同じじゃないですか!!」


 明菜は叫んだ。

 認めたくなくて、否定したくて。恐怖をかき消すために叫んだ。


「同じ、じゃないですかぁ……!」


 やがてその嘆きに嗚咽が混じった。


 その様子を冷めた視線で一瞥し、俊名はテーブルに座った。

 また始まったとうんざりして、ため息を吐く。


 これが今の二人の関係だった。


 俊名は、こういう時に明菜がヒステリックになるのを知っていたし、許容もして結婚した。

 だから咲季が余命宣告を受けてすぐは、明菜の性格を考えて厳しい言葉は控え、彼女をいたわった。「咲季が少しでも助かる可能性を」と泣きじゃくる彼女の願いを聞き、コネを使って咲季を早々に病院に入れ、最新の治療を受けさせもした。


 だから、それだけの事をしたのだから、立ち直ってもらわなければ困る。

 。こんな身内の姿は望んでいない。

 身内のみっともない姿を人様に見られるなど、俊名にとっては有り得なかった。


 片桐俊名はとある大手IT企業の副社長。

 通常より自分が注目を浴びるのは自明。ゆえに世間体というものに敏感だった。

 また、厳格な彼の両親もそういった教育方針だったし、彼自身もそのように生きてきたため、一層それは彼の中で際立っていた。


 取り乱すのは構わない。自分だって咲季の余命宣告を聞いた時は同じように狼狽した。だが、それと妻としての仕事を放棄するのは別問題。


 いつまでも引きずって家事を疎かにし、身だしなみを整えもしないでふらふらと出歩いていては近所からの悪評は避けられない――いや、避けられなかった。

「あそこの奥さんはおかしくなってしまった」と、噂がたつのはあっという間だった。そして少なからず非難の目が俊名にも向いているのも確かで…。


「本当に、君は…冷静になって物事が見れないのか」


 冷えた視線を明菜に送る。

 子供がいない所で、溜まったストレスを発散するように嫌味を言う。いや、正確には俊名はそれを嫌味として認識してはいないのだが、ともかく。それが明菜を追い詰め、結果的に彼女の精神の安定を妨げていることに俊名は気づかない。


「だって!咲季が退院したいだなんて言い出すから…っ!」


 明菜は顔を手で覆ってソファへとうずめた。


「…ああ、本当に、なんで咲季なの……なんで…なんでッ!」


 独白じみた、絶望の嘆き。

 その惨めったらしく映る姿が見るに耐えなくて、俊名は魔法の言葉を呟く。


 それはいつものおまじない。


 一言で明菜が活力を取り戻す、便利なフレーズ。



「…そうだね、〝逆だったら良かったのにね〟」



 言った。

 瞬間、明菜は埋めた顔を上げ、虚空を睨みつけた。そこに見当違いの憎しみを宿して。


「……そう、よ。」


 しかしその言葉のおかげで、明菜は絶望を怒りに変えて、何とか生きていけるのだ。



「あの子なら……秋春なら、良かったのよ」



 # #


「やっぱり、想像と実際に聞くのとじゃ違うよね」


 秋春が病室から去った後、咲季は独りごちた。

 意を決したような顔で、秋春から聞かされた両親の話。それは咲季が知っている二人からはかけ離れたものだった。


 父は咲季に笑顔を向けてくれる。冗談だって言って笑わせてくれるし、咲季を悪しざまに言うことも無い。母だって、最近は体調の問題で病室に来ていないが、父と同じく優しくて、咲季に暴言など吐いたことは無い。ましてや物を投げられたりした事だって無い。

 だから兄に向けられる暴言や冷たい態度の数々を聞いても現実感は無かった。

 まだ入院する前、秋春の話題になるとぎこちない雰囲気が漂っていたし、彼が中学生の時に起こした事もあるから何かしらわだかまりがあるんだろうと思っていた。だがここまでの状況は想像出来ていなかった。

 秋春だってこれまで何事も無いかのような普通の態度だったし、まさかそんな事になっているなんて思いもしない。


「お兄ちゃんのばか」


 きっと咲季のためなのだろう。彼女の前では笑って、いつも通りでいて心配をかけちゃいけないと、兄らしくいるべきだと。


 だから、そんな兄の味方になりきれない自分に、咲季はもやもやとした気持ちを抱き、秋春に罪悪感を抱いた。


 彼女は兄が好きで、それと同じく両親が好きだった。愛情をもって今まで育ててくれた相手を嫌いになれるはずがなかった。

 秋春が酷い扱いを受けていると知って腹も立ったし、引っ叩いてやりたいとも思ったが、それよりも三人が仲良くなれたらいいのにという思いの方がずっと強かった。


 よって願うのは和解。

 いかにして兄と両親を和解させるか。咲季は考える。


「やっぱり…あの時何があったのか、だよね」


 秋春がクラスメイトを殴って病院送りにした事件。


 そして――その次。


 赤坂結愛の教室を荒らして彼女に怪我をさせた事件。



 この二つの事件を起こしたせいで、秋春は両親から見放された。


 理由は「むしゃくしゃしたから」だと両親から聞いた。秋春もその通りだと言っていた。

 だけど咲季にはどうにも腑に落ちない。


 確かに秋春は当時不良で、喧嘩ばかりやっていたが、それはカツアゲしていた輩やいじめをしていた生徒に喧嘩を吹っかけたものだと咲季は知っている。つまり相応の理由――大仰に言えば大義名分が無い喧嘩はしていないのだ。

 そんな彼が「むしゃくしゃしたから」なんて理由で誰かを傷つけるなんてするとは思えない。


 よって、そこには全く違う事実があるのではないかというのが咲季の考えだ。

 そしてそれが当たっていたとしたら、


「仲直り…できるかも…!」


 最高のシナリオを頭に思い浮かべ、ほくそ笑んだ。


 そうと決まれば、今度はそれを調べる方法だ。

 秋春は中学の時の事を話してくれると言ってくれていたが、もし二つの事件に裏があるとすれば、何らかの理由で嘘をつくかもしれない。特に誰かを守るため、庇うためなら高い確率でそうするだろう。秋春はそういう人間だ。

 それに当時の話題になると彼は――無自覚だろうがかなり辛そうだった。話して欲しいとは思うが、辛い思いはさせたくない。

 だから咲季自ら調べて、事の正否を確かめる必要があると判断した。


 そして、当時を知る人物と言えば…咲季の周囲に二人。

 一人は結愛。しかし、大切な幼馴染みの彼女に事件について事細かに聞くのは遠慮が勝る。ゆえに、もう一人へと焦点は絞られた。



「辻堂、明さん」









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