第25話 聞いて欲しい話があるの



「同情…なんかじゃねーぞ」

「…え?」


 考えが纏まるより先、声が口をついて出ていた。

 突然の脈絡の無い言葉に咲季は首を傾げ、何事かと俺を見つめる。

 だが、ここで勢いを止めたら恥ずかしさで言えなくなりそうなので、止めない。


「こうやってお前に構うのは俺が兄ちゃんで、お前が妹だからだ。妹の幸せが兄の幸せだからなんだ。兄妹界隈での常識だぞ。覚えとけ」


 顔が熱くなるのを感じながら言う。

 こう言えば咲季も気づくだろう。


『……じゃあ、そんなに私の事気にかけてくれるのって……同情?私が〝可哀想な人〟だから?』


 これは昨日の問いの答え。

 俺の中で曖昧だった意思が固まったもの。


「確かに同情してないって言ったら嘘になる。けど、そんな気持ちだけでお前と接して…その…告白を受けたわけじゃない。純粋にお前の笑う顔が見たいとか、そういう気持ちの方がずっと強いんだよ」


「…………え……と」


 咲季はポカンとした顔で、理解が追いついていない様子。

 だが、それでいい。

 この際、俺の心やタイミングの問題で言えなかった事を一気に言ってしまおう。


「あと、無理して俺の前で笑うなよ。俺の前でくらい泣いたっていい」


 思わず目を逸らしつつも、想いは真っ直ぐに。


「どうせお前の事だから変な遠慮してんだろうけどな、泣く時は一人で…なんて決まりは無い」


『…咲季ちゃん、一人で泣いてたよ』


 そんなの赤坂さんに言われるまでもなく知っていた。

 俺が病室にやって来た時、咲季の目が赤くて、泣いたような痕跡が有るのを何度も見た。

 それを知っていて知らない振りをしていた。

 家族だからこそ「あまり踏み込んではいけない空気」を敏感に感じてしまい、何も言えなかった。

 けどそれは逃げ。ただの言い訳だ。


「誰かが傍にいて欲しい時だってあるだろ。そういう時は俺を頼れ。今さら、目の前で大泣きされる程度じゃ鬱陶しいなんて思わねーよ」


 俺が咲季の泣いてる姿を見たくなかったんだ。

 こうなる以前、咲季が泣く所なんてほとんど見たことが無かった。だから、そんな姿を見れば咲季の閉ざされた未来を嫌でも意識させられそうで、怖かったんだ。

 結局母さんと同じだった。

 けどそんな臆病な自分は今日で終わりにする。


「無理とか遠慮はもう無しにしよう」


 今回の件で、こいつが一人で相当溜め込んでるのは苦い経験をもって痛感した。

 俺はもう、躊躇ってる場合じゃない。


「泣きたい時は、泣いていいんだよ」


 咲季の手を握って、咲季の目を見て、言った。

 温かい手。

 この温もりが消える事への、恐怖。

 けど咲季はもっと、ずっと怖いはずだ。

 妹がそんな苦しみに耐えているのに、兄の俺が恐怖に怯えているわけにはいかない。

 向き合わなければいけない。


「………………」


 沈黙。

 静寂。

 外で子供がはしゃぐ声と車の通る音。

 換気のために開けた窓から流れる生温い風。

 橙の光。

 咲季は光のせいか、顔が真っ赤に染まっているように見えて、


「ずるい…よ」


 聞こえたのは囁き。


「今、そんな、こと…言われたら……」


 少し潤んだ瞳が光に反射して、幻想的に輝いた。


「私……」


 俺の手をすり抜け、両手で顔を覆う。

 震える肩。


 俺は黙って慰めるように、再び咲季の頭に手を乗せ……




「萌死ぬっっ!!」




 咲季が勢いよくベッドの横に倒れた。



「………………………」


 ………………………………。


 …………………。


「…………ん?」

「私をっ!萌え殺す気ですかウチの兄は!」


 ………………………。


「…………あ、れぇー?」

「最高!カッコカワイイ!尊い!尊いよーー!」


 じたばたとベッド上で暴れる咲季。

 さっきまでの覚悟と言うか心の準備と言うか、そういうものが一気に弾け飛んだ。


「あの、他に何か無いの?込み上げてくるものとか…無いの?」

たっとび!」


 締まりの無い顔で倒れたまま脚をバタバタさせ、手を上げる。


「いや、他にもあるでしょ。きらりと光る一雫的なさ。ここは流す所でしょ。流す所だったでしょ」

「……お兄ちゃん。こういう時に下ネタは無いよ」


 締まりの無い顔から一転、真顔でゆっくり起き上がる。


「今のどこが下ネタになるんだよ…」

「「どろりと粘る雫を垂らす」ってド下ネタでしょうが」

「言ってねぇよふざけんな!ていうかその判定もどうなんだ!」


 叫ぶ。

 そのせいでまだかなり痛む左手が悲鳴を上げた。


「えへへ、ま、冗談はさておき、お兄ちゃんは私を萌え殺そうとしてないですか?」


 真顔からまた緩んだ笑顔へ。

 その言動は冗談じゃ無いのか。


「してない」

「出た出たツンツンしちゃってぇー!そういうとこが良いよね!グッド!」

「やかましい。ていうか前に、「これと言ったいい所無い」とか言ってなかったか?」

「嘘だよ照れ隠しだよ気づけよー。まさか本当だと思ってた?」

「……お前の冗談と本当の事の区別つきづらいんだよ…」

「ミステリアスで良い女?」

「お笑い思考の漫才女」

「ひどい」


 笑顔のまま、咲季。

 一日二日くらいしていなかっただけだが、この馬鹿なやり取りが妙に楽しくて、こっちまで笑ってしまう。


「お兄ちゃんってさ、たまにキザったらしいって言うか、すっごい恥ずかしい事真顔で言うよねぇー」

「は?キザったらしい?」


 どこがだ。

 ただ無理するなって言っただけだぞ。


「ま、気持ちを伝えるのが下手だからなんだろうけどねー」

「…………………」


 それは若干自覚があるので何も言えなかった。


「んっ」

「…っで…え、お、おい」


 何も言えないでいる俺の隙をついて、咲季が突然抱きついてきた。

 身体の節々の痛みと共に頭がぐらりと揺れる。


「……無理してるわけ無いでしょ」


 耳元で声。

 ぴたりとついた胸から、咲季の鼓動が伝わった。早鐘を打つそれは緊張か、興奮か。


 じゃれるみたいに首に頭を擦りつけてきて、くすぐったくて身をよじった。


「お兄ちゃんがいると悲しい時でも自然と明るくなって、笑顔になって、楽しくなれるの。だから無理して笑ってるなんて事、絶対無いんだよ?むしろ、ほとんど毎日来てくれるから、私はお兄ちゃんが無理してるって思ってて…」


 申し訳なさそうに、言葉が尻すぼみになっていく。

 ああなるほど、それが昨日の同情云々言ってた電話に繋がるわけか。


「なわけあるか」

「うん。だから、お兄ちゃんがああ言ってくれて、ああいう風に思ってくれてたって事が分かって、すごく、すっごく嬉しい……!」


 興奮を抑え込んだような声。

 顔めちゃくちゃ緩んでるんだろうな…。


「けどお前無意識かも知れないけど、無理に笑ってるなって時あったぞ」

「…………そうだっけ?」

「自覚無しか…ちなみに今もそう見える」


 俺の指摘に咲季は沈黙。

 今までは咲季に気を遣って黙っていた事。


「…………………」


 自分を思い返しているのだろうか。

 数秒、咲季は硬直したように固まって黙りこくった。


 と、


 頬に柔らかい感触。

 しっとりとして、少し温かい。


 ………ん?


 ぺろっ。


 ん!?


「はっ?ちょ、おま……っ!?」


 何か湿り気のある温かいものが頬を這った。

 全身が総毛立ち、思わず咲季を引き剥がした。

 咲季は俺と目が合うと、上気した顔で照れたように、


「……えへ」

「えへじゃねぇよ!何した!?」

「何って、ほっぺにちゅー」


 タコ口で投げキッスされる。


「違ぇだろ!その後舌でベローって舐めただろっ!」

「ちょ、汚い感じのオノマトペ使わないでよ。私妖怪みたいじゃん」

「急に何なんだよ!ていうか規定違反してんじゃねーよ!」

「きてー……?」


 俺の言葉に首を傾げる咲季。

 半開きの口。

 こいつ忘れてやがるな……


「仮交際の事だよキスとか無しって最初に言ったろうが!」

「……あー、なんかあった…かも、ね。うん。けどそれマウストゥーマウスでしょ?ほっぺにちゅーならセーフセーフ!」

「セーフじゃねーよ仮にセーフでもその後ベロベロ舐めたじゃねーか!」

「うっさいなぁー。そもそも舐めちゃダメって言われて無いし。お兄ちゃんが可愛いのが悪いんでしょー」

「常識で考えろ常識で!ていうか可愛くねぇ!」

「うるさーい!私を萌え死にさせようとした罰っ!」


 興奮した様子の咲季は熱に浮かされたように俺に再び抱きついてくる。

 ツーブロの時のと昨日の男との殴り合いで打撲している左肩が鈍く痛み、それに連動するみたいに全身に鈍い痛みが走った。


「ぐぇっ!…お、おい!やめ…」


 またキスでもしてくる気かと身構えていると、


「お兄ちゃん」


 トーンの低い声。

 雰囲気が違う。

 時が止まったかのような静寂。


「……………どうした?」

「もうちょっと、このままでいい?」


 弱々しく、甘えたような声色。


「…いいけど、また変な事すんなよ」


 冗談めかして言ってみるが、咲季からの軽口は返って来なかった。

 代わりに返って来たのは鼻をすするような音。

 肩に何かが染みた。


「……ごめん、よだれ垂れた」

「おい」

「えへへ…」


 咲季の、しがみつく手の力が強くなる。

 少し身体が痛むが、ここでそんな事言うほど野暮じゃない。

 右手を咲季の背中にまわす。


「ごめんね…」

「ん?」

「今…今だけ…少しだけ…甘えても……いい?」

「ああ。今だけと言わずいつでも来い」



 無理しているわけじゃない。俺といる時は楽しい。それは咲季にとっては本当の事なのだろう。

 そうは言っても一人で泣いてたのは事実だ。

 寂しくて、辛くて、悲しくて。それが無くなる事は無い。


 耳元で聞こえる嗚咽。

 肩に染みる涙。

 強く抱き寄せる腕。


 その全てが、咲季の余命への実感を強くさせた。

 辛い。直視したくない。

 けどこれが向き合い続けるべき現実。

 ならばせめて、寄り添って、一緒に背負っていこうと思う。


「あ………うぁ…ああああ……!」



 今までの悲しみや苦しみを一気に吐き出すように、咲季は泣き続けた。





 #


 いつも通りに振る舞う咲季に甘えて、俺はその悲痛に向き合ってこなかった。

 恋人だなんだと言っておいて抱きしめてやる事さえしなかった。

 臆病だったのだ。

 幸せを願うなら真っ先にするべきだったのに。


「今までごめんな…」


 泣き疲れて眠った咲季頭を撫でる。

 すると、眠りが浅かったのか、咲季が目を覚ました。


「あ…悪い。起こしちゃったな」

「………ううん。大丈夫」


 日が沈んだ病室には橙色の電灯がついており、室内を優しく照らしていた。

 消そうか迷って結局つけたままにしていたが、消せば良かったかも知れない。

 と言うかそろそろ面会時間の制限ギリギリになりそうなのでさっさと帰った方が良いだろう。

 そう思い、パイプ椅子から立ち上がろうとして、


「待って」


 咲季に腕を掴まれる。


「どうした?飲み物でも買ってくるか?」


 俺の問いに、首を振る咲季。


「…………………」


 俺の目を真っ直ぐに見据え、


「お兄ちゃんに、聞いて欲しい話があるの」



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