第23話 慟哭


 #


「お兄さん大丈夫かな」


 暗闇の森の中。もっさりした黒髪、黒縁メガネの少女――凛が呟いた。

 彼女が走っているのは整備された森の区画。

 周りにはベンチや木に掛かった名札、アスファルトの地面。

 人によって整備された森は見晴らしが良く、ライトを当てればすぐに向こうの道が見えてしまう程度のものだったため、探索は容易かった。

 故に凛は既に最奥まで辿り着き、舞花がいないのを確認して、来た道を引き返しているところだった。


「………何度かけてもやっぱり繋がらないし、絶対マナーモードにしてるよねあいつ。お兄さんの方でも見つからなかったらいよいよ大事だな〜」


 スマホの通話画面を閉じ、視線を前へ向けた。


 こちらにいなかったとなると、秋春が向かった雑木林林の方に舞花が居る可能性が高かったのだが、それでも不安は拭えなかった。


 十分程前、一緒に整備された区画に向かおうとした二人だったが、


『何か聴こえなかったか?』


 突然秋春が立ち止まり、凛に言ったのだ。

 話を聞くと、横の雑木林の方で男性と思われる声が聴こえたらしい。

 凛には聴こえなかったが、どうやら秋春は確信しているようで。

 そして最初の情けない態度から一変、


『やっぱり二手に別れよう』


 厳しい顔でそう告げ、凛はこの区画へ、秋春は声が聴こえたという雑木林の区画へ向かったのだった。


 あの時の焦燥感の滲んだ表情。

 第六感というやつだろうか。

 きっと理屈じゃ説明つかない危険を感じ取ったんだろう。


「だけど…」


 だとすれば秋春はそういう危険を本能的に感じ取れるくらいの環境にいる……もしくは、過去にいた。と言う事なのだろうか。


「ん〜、ナシ寄りの…アリ、かなぁ」


 あながち否定出来ないなと、先の秋春の表情を思い返した。



 # #



「……………っぐ!」


 血が足元の雑草を僅かに濡らした。

 左手に感じる痛みに歯を食いしばって耐える。

 食い込んだナイフの刃。

 男は驚いているのか、状況が理解出来ないのか、こちらを見上げて固まっている。


「悪いね」


 そんな男に俺は痩せ我慢で不敵に笑ってやった。


「一応、得物使ってくる馬鹿は初見じゃないん、で!」


 組み合うようになっていた状態から後ろに下がり、を思い切り引いた。そのまま、たたらを踏んで体勢を崩した男を投げるように地面へ叩きつける。


「ごぶっ!」


 倒れた隙を見逃さず、手から離れたナイフを奪い、また遠くへ投げ捨てる。そのまま前へ駆けて俺のスマホを回収し、再び城ヶ崎の元へ。110番を押そうとしたところで、男が起き上がるのが見えてそれを断念。


「復活早いな変態。もっと寝てろ」

「あ、ぐぅぅ!クソ!こんな、こんなはずじゃ……ああ、あともう少しで恋人が…ボクを理解してくれる人が…」


 悪態をつくが、男は血走った目で頭を押さえ、何事かをブツブツと呟くだけだった。


「…………………」


 その様子に言い知れない恐怖を覚えた。

 常識、正気。それらから外れたものの気配。


 俺は城ヶ崎の側でしゃがみ、


「城ヶ崎、走れる?」

「え………」

「ごめん。今ちょっとキツいと思うけど、アレ、思った以上にヤバそうだ」


 男を気にしつつ、立たせるために無意識に左手で城ヶ崎の手を握った。


「〜〜〜〜〜〜!」


 当然、鋭い痛みが走った。

 自分のアホさに自分で腹が立ったが、城ヶ崎に気取られないよう、痛みを顔に出すだけに留める。


「……え……こ、これ…!」


 しかし、流石に俺が怪我をしているのに気づいたようで、自分の手に付いた血と俺の左手を交互に見ておろおろとしてしまう。


「あー、大丈夫。見た目に反してそこまで痛くないから。それより手汚しちゃってごめん」


 本当はめちゃくちゃ痛かったが、心配させたくないので痛くないフリ。無理矢理笑いかける。

 だけど、これは怪我を覚悟して、その上で負った傷だ。

 男がナイフを持って突っ込んで来た時、怪我を恐れて反撃なんて出来なかったが、後ろに城ヶ崎がいる以上逃げるのも無理だった。

 俺か城ヶ崎のどちらかが怪我をする。それを天秤にかけた時、どう考えても俺が怪我をした方がマシだと思ったから、俺を切り捨てて捨て身で臨んだ。その結果がこれだ。

 だから、事前に心の準備があった分、この痛みは我慢出来るのだ。


「俺の事はいいから。それで、あいつから逃げたいんだけど、走れそう?」

「え…?え、と…」


 言われた言葉を理解しているのかいないのか、城ヶ崎は数秒待っても戸惑った様子のままだった。


 ……これは、逃げるのは無理そうだな。


 判断し、視線をまた男の方へ。

 男は自身を落ち着かせるように深く呼吸を繰り返していた。

 まだ猶予がありそうだったので断念した警察への通報を再度実行。

 電話が繋がり、俺は手短に女の子が襲われた事と目の前で男が狂ったように呻いている事、場所がどの辺りなのかを伝え…


「お前何してるッ!!?」

「っ」


 終える前、急にこちらの動向に気付いた男に体当たりされた。

 地面に強く叩きつけられ、スマホが地面に転がる。

 なんとか城ヶ崎を巻き込まずに済んだが、そのおかげで無理な姿勢を取ってしまったからか、上手く起き上がれない。


「この!クソガキ!!」

「ぐ!!」


 起き上がろうと藻掻く俺の側頭部を男が靴で踏みしだく。


「あ……や、やめ…!」

「死ね!死ね!」


 か細い城ヶ崎の声。

 男の殺意の籠った声。

 頭に響く衝撃。


「だ、め……やめ、て!」


 今にも泣きそうな声で、城ヶ崎が叫んだ。

 瞬間、ピタリと男の動きが止まった。


「あぁ?」


 男の意識が城ヶ崎に向いた。


「やめて欲しいなら、さ、ボクの言う通りにしろよ。ボクの事に逆らうなよ?」


 俺の頭から足が離れ、足音が城ヶ崎の方へ。


「――ひっ!」

「じゃあボクの家に行こうよ、ボクと一緒に暮らそう…君となら上手くやっていけると思うんだぁ!子供もいっぱい作ろう!そうだな、4人くらい欲しいなぁ…ふ、ふふ、ふふふ」

「………………!」


 俺はよたよたと立ち上がった。

 言葉にならない恐怖や嫌悪感に身体を震わせている城ヶ崎と、それに触れようと迫る男が視界に入る。


「気色悪い手で触ろうとしてんじゃねぇぞ異常者…っ!」


 俺が立ち上がる事など考えていなかったのか、男の背中は隙だらけだった。ジャージの襟を掴み、そのまま一気に後ろに引き倒す。


「ぐぇっ!」


 ジャージに首を絞められる形となった男が苦鳴を上げた。

 今度はこちらが地面に叩きつけ、馬乗りになった。


「この……ガッ!ゴッ!」


 男がしぶといのは分かっていたので、追撃で顔面を二、三発殴る。

 殴った勢いで男のつけていたマスクが外れ、素顔が完全に露わになる。

 40代前後だろうか。口元や目元の皺の具合からそう判断出来た。

 どこにでもいそうな、ともすれば穏やかに見える顔つき。

 その見た目とあの卑劣な行為の乖離に一瞬動きを止めてしまった。


「な、に、しやがるクソが!!」


 怒号。

 隙をついて男が俺を横へ引き倒した。

 勢いよく地面に叩きつけられ、肺から空気が消えた。

 すかさず男は俺へと馬乗りになり、顔を殴打。

 ガタイのいい身体から放たれる本気の拳。


 痛い。


 ああクソ、だから暴力は嫌なんだ。

 振るえば自分に返って来る。返って来るのは相応の暴力。暴力は当然、痛い。


「邪魔してんじゃねぇよクソガキ!!」

「うぐっ!」


 痛いのはもう懲り懲りなんだ。


「死ねッ!」

「がっ!」


 痛いのは心だけでいっぱいいっぱいなんだよ。


「死ね!死ね!」

「……ぐ……っ!」


 だけど……


「死ね!死……あ?」

「許せるわけが、無いだろうが」


 拳を左手で受け止め、近づいた嗜虐的な笑みに向けて頭突き。

 よろめいたところで髪を掴んで、空いた左手で思い切り頬を殴りつける。左手に走る激痛。しかし、そんな事は些事だ。

 俺にかかる体重が軽くなったと同時、全身に力を込めて拘束から抜け出し、


「っ、らぁ!!」


 中腰の男の横腹に蹴り。


「ぐぶっ!…ぐ、ガァァァァァ!」


 体勢を崩すも、男は倒れず、俺へ突進。

 まともに食らって背後の木にぶつかる。

 後頭部が強く打ちつけられた。視界が明滅し、平衡感覚が歪み始める。ドクドクと左手の傷が脈打ち、熱を帯びた。


「あああああ!」


 男の前蹴りが腹に入った。

 吐き気。

 胃液と血が混じった味。


「オラ!どうしたぁっ!ええ!?さっきまでの、威勢はよォォ――ゴッ!?」


 殴りかかろうとした男の顎を拳で打ち上げる。


「…ほら、殴れば…こっちの手も、痛いんだよ……分かるだろ」


 ジャージの襟首を右手で掴んで引き寄せ、離し、頬を殴る。返す手の甲でまた殴る。


「心だって、同じだ。同じはずだろうが…!」


 腹を殴る。脚を蹴る。


「なのになんで……なんで、人の傷つく様を見て笑っていられるんだ!!」


 叫んで、頭突き。


「あ……ご、ぉ」

「……ふざけんじゃ、ねぇよ…馬鹿野郎…!」


 苛立ちと共に吐き捨てた。

 それは、この男へ……いや、男を通しての、変わってしまった幼馴染みへの慟哭。


 だから、これはただの八つ当たりだ。

 行き場のない怒りや哀しみを暴力で吐き出しているだけ。あの時の――中学生の時と同じ、はた迷惑で愚かしい行為。


「はぁ、はぁ、…………くそ」


 褒められた行為じゃない。最悪だと責められても文句は言えない。

 過去に何度もやっていただけにその実感は色濃く残っている。

 だから暴力は嫌いだ。振るった後、こうやって自己嫌悪に陥るくらいには。


「………けど、」


 血が滲んだ口元を腕で拭い、視線を下へ。


 ……今みたいにクズ野郎を殴り倒すのに役立ったんだから、今回は大目に見て欲しい。


 苦しげに呻き、地面に倒れて蹲った男を見て俺は誰とでもなく弁明した。



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