断片供養

時雨薫

断片

 鉄道は異郷だ。人に注目せざるを得ないから景色の見えない地下鉄は特にそうだ。福永幸子は4番線で下宿へ向かっていた。青白い蛍光灯に照らされている人々の肌の色は様々だった。中国系の母子がいた。冬を引きずったままのダウンを着込み男の子は母にすがりついて「媽媽」と呼んだ。母はかがみ込みハンカチで鼻をかんでやった。アルジェリアから来たらしい男が隅の座席で眠っていた。細長い体が舞踏のように曲がっていた。

 幸子は車窓に映る自身を見つめていた。束ねた髪が蛍光灯の光に照らされて黒い。化粧はこちらに来てから薄くなった。山形から持ってきたトレンチはパリの街ではどうにも安っぽい。鏡面が消えた。ホームが滑り込んできていた。人が多かった。男が目を覚ました。前方で火事、降車するようにと車内放送があった。男は喉を締めるような声で何かつぶやき真っ先に降りようとした。幸子は銀色のものを席の上に見つけ、男を呼び止めた。幸子はそれを男に手渡した。ハーモニカだった。メルシ。男の白い歯がのぞいた。乗客は次々と降り続けていた。喧騒の中からノートルダムと言う声が繰り返し聞こえた。ホームに立った幸子が人混みに呑まれそうになるのを男が庇った。

 地上は焦げた匂いがした。空は赤を織り込んだ白で絵画のように気だるかったが、陽はもう沈んでいるかもしれなかった。さっきの母子の後ろ姿が遠くに見えた。

「ノートルダムが燃えている」

はっきりとそう聞こえた。幸子はやっと事情を飲み込んだ。男が見つめている方角から確かに煙が上がっていた。

「見に行こうか?」

男のフランス語は幸子に劣らず異邦人訛りだった。

「行きましょう。セーヌの岸からならよく見えるでしょうから」

岸へ近づくほどに人が増えていった。滅多に使わない駅だったが、なにせパリの中心だから土地勘はあった。

「学生?」

「うん。近代思想をやってる」

「ロラン・バルトとか?」

「その辺り。ちょっと新しすぎて情緒がないけどね」

「中国から?」

「日本。学校は東京だっただけど、生まれは山形っていう田舎なの」

 岸に着いた。人だかりが出来ていた。生粋のパリっ子は前に集まっていて、幸子のような野次馬たちはその背中と火事とを一度に見物していた。

「あれが火?」

「どうだろうね。夕日のせいかもしれない」

群衆からむせび泣きが聞こえた。祭典のクライマックスのようだと幸子は思った。

「あなたは?音楽家?」

「そんなに立派なものじゃないよ。お金を稼ぎに来たんだ。不法就労」

「ここはいい街?」

「足元が落ち着かない。虚構の上に立ってるみたいだ」

「それなら私は特に虚構らしい虚構でしょう。お互いに名前も知らずに火事を見ている」

「崩れるね」

尖塔が火に呑まれ傾き始めていた。どよめきが起こった。

「帰りたくなるな」

男が言った。

「火事と望郷が結びつくの? 不思議な人」

「不可逆性の比喩なんだよ」

尖塔が崩れ落ちた。あちこちから叫び声が起こる。人だかりはここばかりではないらしい。

「私ね、この火事を知っていた気がする。いつかノートルダム寺院を燃やしてしまおうと思ってたから。そんな小説を読んだの。昔」

「ノートルダムを燃やそうだって? 危険な人だね」

「不法就労に言われる筋合いは無いよ」

「ああ、帰りたい。僕は帰ることにした」

男は火事に背を向けて去っていった。幸子は男が角を曲がるまで見つめていた。男はついに振り返らなかった。幸子の耳にハーモニカの音がかすかに聞こえた。火事が吹かせた風を聞き違えたのかもしれなかった。

 楽器といえば千恵ちゃんだ。幸子はそう思った。

 千恵は中学の頃から吹奏楽部でフルートを吹きはじめた。幸子は楽器が一つもできなかった。幼馴染が遠いところへ行ってしまったような気がした。高校は別だった。幸子はマンドリンを始めた。千恵に追いつきたかった。マンドリン部の部員は40人より多かった。大勢と連帯意識を持つことは楽しかった。楽器の腕も上がった。千恵のことなどもうほとんど忘れていた。交流もなかった。母とはひたすら仲が悪かった。母は地元の短大へ進学するように言った。叔母の母校だった。幸子は都会へ出たかった。父が母を説き伏せて、幸子は東京の私大へ進学した。何を学ぼうとも決めていなかったが、マンドリンは続けるつもりでいた。サークルは高校の部活よりさらに規模が大きかった。100人を超える仲間の名前をすべて覚えることなど出来そうになかった。三年の夏までサークルと学業だけが生活だった。哲学に興味を見出し始めていたが、時期が遅かった。大学生活の残りは就職活動に費やされるはずだった。漫然と時間が過ぎた。四年の春だった。東京の桜が早く咲くことにももう慣れていた。平凡な旅番組でパリが紹介されていた。留学しようという考えがふと浮かんだ。向こうの大学に入り直そうと思った。フランス語には自信があった。それからの行動は早かった。入試制度も学費もすぐに調べ尽くした。両親から金を借りることにした。奨学金もおりた。父はフランス語のできる人材は必要とされているからと言って留学に肯定的だった。哲学を極めてもいいしもう四年間学んだあとに職についてもよいと言った。母は何も言わなかった。六年前に本格的な反抗期を経験していたから、自分が娘の人生の舵取りができると思っていないらしかった。

 秋に幸子は東京の大学を中退してパリへ来た。パリは東京ほど都会ではなかった。学生と観光地ばかり多かった。千恵と再びやり取りするようになった。千恵がフェイスブックで幸子を見つけたのだった。千恵は三年生だった。一浪して入学したあとに病気で一年休学していた。千恵は幸子から聞いたパリの様子を京都のようだと表現した。千恵の大学は京都にあった。毎週末電話した。時間がわからなくなることがよく話題に上がった。まず、時差がある。夜にパリから電話をかけると京都は朝だ。学年もそうだ。同級生だったはずが、幸子のほうが2つ上になった。今度は逆転して千恵が2つ上になった。時間は前へ進まないのかもしれない。私達はずっと大学生のままかもしれない。それも素敵なことかもしれないと千恵は笑った。幸子も笑った。しかし不気味さを感じずにはいられなかった。

 二年が過ぎた。幸子の興味は現代思想に移りつつあった。

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