第5話 静止した機知
機知とは比喩に代表されるように、隠された類似性を探し出すというものなのです。
が、それをどうやって、何を根拠にして見つけ出すのかといえば、それは思考力ではありません。
実は心の動きが、物事の類似性を発見していくのです。そうやって機知的思考は生まれていきます。
心理学において特に顕著に言われることになりますが、人間はなかなか自分の心を制圧することができません。
人間の心には意識と無意識が存在していて、人間は意識を支配することができるのですが、無意識を支配することはなかなか難しいのです。
と言うかむしろ、無意識という言葉で言い表された領域の大半はおそらく、人間の支配から逃れているところなのでしょう。
だから、私はこのような形で今文章を書いていますが、このようなことだって無意識で起こっている以上、自分でもどうしてこのような表現が出てきたのかということが全く定かではない、ということが非常に多いわけです。
そしてそういう言葉たちはどういうわけか夢のように消えやすいものであって、どうしてもそれはすぐに書きとらなければならないものです。
ある意味行動と同じようなものでしょうか。
例えば自分がある程度散歩したとして、それでいったいどれぐらい、何歩歩いたかということを全く覚えていないということと同じことではないでしょうか。
実際に行動はしたのですが、その行動の具体的な詳細については全くもって覚えることができていないということ、つまり記憶からはすぐに消え去ってしまう、というのがこういった機知的思考の特徴なのではないかと思っています。
機知はいつ、自分の元に降りかかってくるのかわかりません。
実際に多くの哲学者が様々な機知的思考を利用してきました。
だからどうしても、これは運頼みなのです。
降ってくる時もあれば降ってこない時もある。
だから人々はこの機知的思考を、「神からの恵み」と呼ぶようになりました。
私もそのようなものにある程度は依存しています。
しかし、降ってこなくなったのであればひょっとしたら、私は天使に嫌われ始めたということなのかもしれませんね。
小説も突然やってくる機知を利用して書ければいいですね。
しかしなかなか難しいものです。
そのようにして文章を書き始めたらどうしても、内容が収斂することがないのです。
私の文章にはどうしても収斂作用が働かないのです。
小説を書くということは意識的であり、同時に無意識的なのです。
しかしおそらく、小説家の大半は意識的に文章を書かなければならない人たちでしょう。
無意識の力を利用して文章を書くという人間はそう多くはありませんから、なかなか難しいものです。
それに、自分の本能の赴くままに文章を書く人々はなかなか、作家という身分にはなれない人たちでしょう。
とは言っても、作家の多くがこうやってコンテストに実際に入選した方々ですから、やっぱり無意識に頼る所は大きいのではないかと思っています。
実際に無意識で文章を書けないと、どうしてもコンテストで入選できるような文章を書くことはできません。
意識的に書くか無意識的に書くか、難しいところですね。
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